avenge
1-1.
心はとうに凍えていた。自分の全てを擲ってでも、彼らを不幸のどん底まで引きずり落としてやると決めていた。
それでもその日が来るのを、心のどこかでは恐れていたように思う。
だから、あるいはそれは、その迷いが見せた幻だったのかもしれないけれど。
夜明けの陽光をきらきらと弾き返す、大きく美しい生き物を、そのとき、確かに見たと思った。
──それは、翼ある銀色の蛇だったように見えた。
◆
曙光の差し始めた空を駆け、その森の真ん中の背の高い木々に衝突して、『彼』は墜落した。
見晴らしのいい梢の上、翼を畳み、身をよじって体を広げる。全身を覆う銀の鱗が、枝葉と擦れて微かな音を立てた。衝突に驚いて離れていた鳥たちが、戻ってきて警戒の声を上げる。心地よい眠りを邪魔されたときのように不機嫌になって、声を上げて追い払った。
……もっとも今の心境は、心地よさとはほど遠い。
長い飛行に耐えた全身は疲労し尽くしていてひどく気怠かった。腹の中で何かがしくしくと痛む気がした。近い枝の上に長い体をどうにか伸ばし、『彼』は喉を反らして目を閉じる。眠気が差してきたと思う間もなく、意識が遠のいた。
そして夢を見た。ほんの数日前まで実際に『彼』の現実だった、恐ろしい夢を。
そこは無人島だった。岸壁が海から高々とせり上がる、古代の柱のような島だ。船が着岸できる場所は一カ所しかなかった。人の姿をとっていた『彼』は、雇い主と、彼と同じ立場の六人の仲間と共に、その島に降り立った。
彼らが得た仕事は、雇い主を護衛しつつこの島を調査することだった。探索は順調に進み、古代の遺跡や財宝を見つけ、十分な成果を得たのでもう明日には船で陸地に戻ろうとしていた、そんな晩だった。前祝いだと称して雇い主は、島に持ち込んでこの方誰にも触らせなかった秘蔵の赤ワインを開け、全員に振る舞った。彼らは喜んでそれを口にした。
様子がおかしいことに『彼』が気づいたのは、隣にいた仲間がカップを落としたときだった。その男は苦しげによろめくと、信じられない、という顔で雇い主を睨みつけた。そして『彼』は見た。その男の胸に、雇い主が抜き放った装飾過剰な短剣が突き立ったのを。
恐れおののいて『彼』は後ろに下がろうとしたが、仲間の誰も動かない。何故だ、と慌てて周囲を見ると、仲間たちはそれぞれに苦痛に顔を歪め、ままならない手足で雇い主に抗おうと必死にもがいているところだった。
『──毒であっさり死んでもらっては困るんじゃよ、贄は活きがいい方がいいからの』
にたりと笑った雇い主が短剣で彼らの命を奪っていくのを見て、『彼』は恐慌状態に陥った。悲鳴を上げて島の奥へと逃げ込む。雇い主は『彼』を一瞥したが、その場で動けなくなっている者たちにとどめを刺すことを優先したようだった。
……『彼』の種族の身体は、体内に入った毒を分解することにかけては並の人間を遙かに上回る。火山の麓で生きるうちに身についた能力だという。そのおかげで『彼』は、かなり遠くまで逃げることができた。だが奇妙なほど的確に、雇い主は『彼』を追ってきた。
やがて、崖際に追い詰められた。お前が最後の一人だ、と雇い主は嗤いながら短剣を振りかぶった。
そのとき『彼』は、仲間たちの顔を思った。まだ人里に出たばかりの『彼』に皆優しかった。わからないことがあれば何でも教えてくれたし、食事のたびに笑い合ったし、苦手なことは助け合って仕事をした。……それはこの雇い主も同じなのだと、ずっと、そう思っていたのに。
足下の崖が小さく崩れたとき、『彼』は大きく海へと跳んだ。墜ちる前に自分の本来の姿を思い出し、変化する。翼ある銀色の大蛇。絶望的な怒声を上げる雇い主から逃れて、高々と空に羽ばたいた。
しばらくは方向感覚を失っていたが、やがてようやく風の道を見つけると、『彼』は一目散に逃げ出した。
……それから、どれぐらい飛んだのだろうか。
数日目の夜明け、ついに力尽きて、『彼』はこの森の木々にぶつかり、墜落したのだ。
がくり、と本当に衝撃を感じて目を覚ますと、首を乗せていた枝が重みに耐えかねて折れたところだった。慌てて身を起こし、他の枝を支えに体勢を立て直す。何とかバランスをとった。
(……あー……)
まだひどく怠かった。するすると幹に体を寄せ、人の姿を取る。青灰色の髪をくしゃくしゃと撫でつけ、深緑の目を瞬いた。
怠いのみならず、手足が冷たく感じるほど腹が減っていた。そういえばあの島を逃げ出してから何も食べていない。座っていると目を瞑りそうになるほどぼんやりしながら、何か食べなくては、と思う。
だがとても、自力で獲物を追える体調ではなかった。そもそも知らない森での狩りは普通より効率が悪くて疲れるものだ。とても無理だ、と思って枝の上で立ち上がり、人の町を探した。そこまで遠くない位置に、赤煉瓦の建物が並ぶ小さな町が見えたので、あそこに行こう、と決める。
緩慢な動きで枝から降り、樹を下っていく。周囲で黒い鳥が何羽も、時ならぬ闖入者に騒いでいた。
足取りが重かったので町までは結構な時間がかかり、町の西にある市場にたどり着いたのはほとんど昼前のことだった。
人間は、すぐに食べられる食べ物をいくらでも溜め込んでいる──だが広場の入り口、煉瓦の建物を回り込み、台の上に色とりどりの布の屋根を張っただけの簡易な屋台の並ぶ市場を覗き込んだところで、まったく別の問題があることに『彼』は気づいた。
(……だめだ)
市場はごく小規模だったが、それなりに多様な食物が並んでいた。果物があり、野菜があり、卵があり、乳製品があり、保存の利く形に加工された肉があった。内陸部であるせいか魚はなさそうだ。
ただ、『彼』にとっての問題はそこではなかった。
(……誰も怖い顔なんてしてねえのに……怖い……!)
記憶に刻み込まれたあの悪夢のような出来事によって、『彼』はすっかり他人の表情というものを信じられなくなっていることに気づいた。
目の前にいる人が笑っていても、どれだけ温かく接してくれても、きっともう信じられない。いつなんどき豹変するかわからないと思ってしまう。
──そしてここにあるのは、すべて人の手によって運ばれてきた食物。何を考えているのかわからない人間たちが売る食物だ。安心できるものなどほとんどない。
(何か……何か食べられるもの……)
市場の入り口で自分の肩を抱き、困り果てて屋台の群れを見つめる。
まだ生きている鶏、ひびや破損のない卵、決して割れない硬い殻に包まれた果実、そういったものならばかろうじて口にする気が起こるかもしれなかった。だがよく考えてみたら、手元にこの地域の通貨がない。持っているかいないか以前に、そもそもどこの貨幣を使えるのか知りもしないのだ。
(盗……む、のか……それしかないのか……)
あまりの状況に愕然としながら、それでも屋台の商品に目を凝らす。
鶏を盗むのは多分無理だろう。捕まえたまま逃げ切れなくてはいけないとなると難易度が高い。果物は難しくなさそうだが、それだけで十分な血肉になってくれるという気もしなかった。
となるとやはり、盗みやすくて食べ慣れたもの。
辺りを見回して、卵売りの屋台に目をつけた。
近づいて、籠に器用に積まれた卵の山から二~三個盗んで、離れる。それだけだ。まず最初はそのくらいでいい。少しでも体力が戻れば他のやり方ができる。
好都合なことに卵売りの屋台の店主は老婦人のようで、小さな眼鏡の奥の目をしょぼしょぼさせていた。やがてその首がゆっくりと、上下に揺れ始める。
……脱出経路は奥の路地。可能なかぎり何気なく行くことに決める。
正直あまり軽やかに歩ける体調でもないものの、悪目立ちしないよう気をつけて屋台に近づいていく。あと三歩、二歩、一歩、手を伸ばす。籠の一番手前から左手で拾った卵を右手に。もうひとつ拾おうと左手を出して──
(……あ?)
割れないよう卵をそっと包み込んだはずの右手が、なぜか空なことに気づく。いやそれどころか、誰かに右手首をしっかりと掴まれている。
「アンナ小母さーん、卵ちょうだいー」
その右手首を握ったまま、すぐ隣で、見も知らぬ長身の少年が呑気な声を上げた。
(……は? いや、え?)
伸ばしかけた左手が行き場を失って震える。右手の拘束を振りほどこうとしたが、関節に合わせるようにぴたりと添えられた指がそれも許さない。
「あらあらエーミールちゃん、いくつお入り用かね?」
「うーん、今日はふたつ……」
目を覚ました老婦人から見えない角度に、手の中の卵をそっと戻しながら、『彼』の顔にちらと目を走らせて、少年は頷いた。
「……いや、六つお願い」
「はいはい」
傍らに置かれていた小さな籠にキャンバス地の布をゆるく敷き、老婦人は丁寧に卵を六個入れて渡した。少年はまた頷いて、彼も見たことのある数枚の硬貨で代金を支払った。
「じゃ、行こうか、ヤン」
(!?)
まるで『彼』には無縁な名前で呼びかけながら、少年は手を引いて、元来た市場の入り口の方に歩きだす。
「お、おい」
呆気にとられて口すら挟めなかったが、引っ張られてやっと声が出た。少年は穏やかに微笑んで、
「……とりあえず離れよう。アンナ小母さんが寝てるのはいつものことだから、周りの人たちがちゃんと見てるんだ。こんな小さな街では、知り合いじゃないだけで目立つんだよ」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、人のいい笑顔にはとても見合わないことを言った。
「……」
何か言おうとしたが何も言葉にならない。手を引かれてつんのめりながら、そのまま広場の入り口を出て、あまり大きくはない家並みの間を歩いて行く。