avenge

1-2.


 卵売りの老婆にエーミールと呼ばれていた少年は、彼よりもぎりぎり頭一つほど背が高かった。焦げ茶色の髪は柔らかそうで、襟足に少し掛かっている。日焼けの少ない白い肌。何が嬉しいのか、その目はずっと笑うように細められていた。赤と茶色のチェックのシャツ、サスペンダーで吊ったズボン。それほど高級な衣類ではなさそうだったが、まあまあ育ちが良さそうな奴だ、と思う。
 エーミールは彼の手を引いたまま、広場を出て通りを抜け、二度ほど角を曲がった。煉瓦造りの住宅が集まる一角、その一軒の前で立ち止まり、首にかけていた鍵を取り出してドアを引き開ける。彼に笑顔を向けた。
「どうぞ」
「……」
 困惑と拒否を全力で表情に出して立ち止まったが、エーミールは意にも介さず先に中に入り、この上まだ『彼』の手を引いた。
「話があるなら中で聞くよ」
「…………わかった」
 罠があるかもしれないと疑うこともできたが、仮にそうだとしても全体的に意味不明すぎた。『彼』は部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めて、ドアノブを握ったままドアに寄りかかった。ひと押しすればいつでも外に出られる位置だ。
「……」
 エーミールは進もうとして、『彼』が足を止めたのに気づいたようだった。少し考えるような顔をして、そっと手首から手を離す。振りほどきづらい力加減だったわりに、残った痕はそう濃くもない。身を守るようにその手を体に引き寄せて、『彼』はエーミールに疑いのまなざしを向けた。
「……何のつもりだ」
「……あ、そうだ、卵」
 エーミールは質問には答えずに、ずっと体の前に抱えていた卵の籠に目を落とすと、その中の卵を二つ手に取る。籠の方を、『彼』に向かって差し出した。
「はい、あげる。……君の分だよ」
「……」
 エーミールの顔を探るように見る。目は今も細められているが、笑っているというよりは『彼』を観察するような眼差しに思えた。
 籠に手を伸ばさなかったので、エーミールは困ったように首をかしげる。
「……別に何のつもりでもないよ。困ってる人を見たら助けてあげなさいって父さんが言ってたし、君はとても困ってそうだったから、それだけ」
 エーミールを睨み付けて、『彼』は反発した。
「……そんなの信用するもんか。俺が悪党だったらどうする気だったんだ」
 百歩譲って、盗みを止めて卵を買い与えるところまでなら、全く理解できないとも言えなかった。相当なお人好しか馬鹿の所業だとは思うが。……だが、自分の家にまで引きずり込むというのは。
「え? ……うーん」
 エーミールは何もない空中に視線を泳がせる。経緯を思い出すような少しの間。
「盗みに慣れてるようには見えなかったから、大丈夫かなと思って。ここまで来てもらったのも少し話がしてみたかっただけなんだ、気を悪くしたならごめんね」
「……う……」
 確かに自分は、盗みに慣れているようには見えなかっただろう。しかしそうだとしても、無防備にもほどがある。底抜けのお人好しか、間抜けか、あるいは──
「信じてもらえないならそれでもいいよ。でも、僕は卵は六つも要らないんだ。だから、これが君の分なのは変わらない。よかったら受け取って欲しいな」
 なおも胸元に押しつけるようにして再度差し出されたそれを、『彼』は渋々ながら受け取る。エーミールは少しほっとしたように微笑んだ。
「よかった。……それじゃ、僕ちょっと母さんのお昼ごはんを用意しなくちゃいけないから、行くね。気が向いたら中で待っててくれると嬉しい。もう少し話がしたいんだ」
 エーミールは玄関から見て左のドアを開け、その奥の部屋に消える。『彼』はひとり残されて、卵の籠を、その中の茶色い殻の卵を、息が止まるほど見つめた。ほとんど無意識に自分の身体を抱く。この震えが力の入れすぎなのか、空腹のせいか、他の理由かわからない。
 ……これは自分が盗もうとした卵の山から取った卵だ。そのときと何も変わらない卵だ。殻に多少の汚れこそあれ、ひびも傷もない。ここまで歩いてくる間、エーミールは片手で『彼』の手を引き、もう片手で卵の籠をずっと体の前に抱えていた。いま彼自身に必要な二個の卵を取ったそのときにも、小細工をする余裕などなかったはずだ。
 間違いなく『彼』はずっと見ていた。この卵は売られていたときのそのままだ、そのはずだ。何より今日出会ったばかりのエーミールに、こんなに手の込んだやり方で『彼』を害する理由があるはずもないのだった。
 それなのに。
 自分に向けて差し出されたそれを口にする、そのことを考えるだけで。
 ──『あれ、今日の酒はエールじゃないのか?』
 ──『とっておきじゃよ。無事にこの島の探索を終えたら皆で呑もうと思っとった。なら、開けるのは今日しかないじゃろう?』
 ──『お、ワインか、いいねえ』
 ──『まあそうは言っても、そんなに高いものでもないがの。コップを集めておくれ、きちんとみんなに分けるからの』
 ──『あはは、あんたちょっとでも自分が少ないと文句言うもんなぁ!』
 ──『そうは言うがの。限られた酒なんじゃから仕方ないじゃろう?』
 そう言いながらカップの半ばほどまで注がれ、にこやかに差し出された酒のことを思い出して。
「……ぐ……」
 喉が、締まる。息苦しい。温かさと勘違いしていたものが胃を締め付けてくる。あの男だって確かに親切で、気前がよくて、よく話を聞いてくれて仕事も教えてくれたのだ──彼らが毒杯をあおるあの瞬間までは。
 ……そうだ、根拠もなく向けられる好意にはきっと理由がある。
 相手が底抜けのお人好しか、間抜けか、あるいは。
 あのときと同じく、容易く騙していつでも殺せると思われているか。
 ただでさえそれほど明るくない玄関の景色が暗く沈んでいくように思えた。……いや、実際に目の前が暗くなりつつある。指が冷たい。
 籠を抱えたままドアに寄りかかり、崩れ落ちる。目の前に食べ物があるのに喉が締まって食べられないなんて、どこかで聞いた地獄の景色みたいだと思った。泣きたいくらいだったがもはやその気力もない。
 ──だがそのときふと、温かい匂いを感じた。エーミールが入っていった部屋の方からだ。入ってこいと言わんばかりにドアは開け放たれたままだったが、すぐ中のリビングルームに彼の姿はなかった。さっきエーミールは何と言っただろうか。誰かの、確か母親の昼ごはんを用意する、と言っていなかったか。
 ……手ずから差し出されて受け取った食物が信頼できないのなら、一体何であれば自分は口にできるのか。その答えに、不意に気づいた。
 さっきはわかっていなかった。ただ、金がないから盗むしかないのだと思っていただけだった。
 だがそうではない。彼らが彼ら自身のために用意した食物を、彼らの意に反して奪うこと──それだけが、唯一安心できる食料調達の手段だったのだ。
 卵の籠は床に置き、身を低くして玄関から部屋の中へと進んだ。中央にテーブル。その右横の壁際に進むと、今は時期ではないため火の入っていない暖炉の横に火かき棒が吊ってある。それをそっと手に取り、音を立てないように身体を起こした。いつでも立ち上がれる姿勢。火かき棒に左手を添え、柄の後端を右手で支える。
 匂いからしてここがキッチンらしい、と思えたのは、入り口の正面の壁に二つ並んだうち右側のドアだった。手前に開く構造だ。エーミールはその中にいるらしく、ドアの向こうでまだ微かながら音がしている。食器の触れあうような音に続いて、少し重いものを置くような音。ドアノブが下がりドアがこちらに開いてくるその瞬間を見計らって、火かき棒の尖った先端を突きつけた。
「!」
 古びたトレイに湯気の立つ皿を乗せたエーミールが、ドアをくぐりかけたそのまま、その場で息を呑んで足を止めた。突端はその胸にまっすぐに向いている。刺さっていなくてよかった、と瞬間的に安堵して、いやそれどころではない、とその考えを頭から振り払った。
「……そっちをよこせ。今すぐにだ」
 押し殺した声で要求する。
「えっ……」
 動揺した表情でエーミールは彼と火かき棒を見て、それから控えめに右を見た。そこにはもう一つドアがある。たぶんこの食事をそちらに運ぼうとしていたのだろう。それからエーミールはもう一度彼の方を見て、軽く唇を噛み、頷いた。
「……いいよ。どうぞ」
 火かき棒を構えたまま目線でテーブルの方を示し、暖炉の前あたりにトレイを置かせる。エーミールは両手の平を彼に見せたまま、後ろ歩きで数歩下がった。
 そちらを見ている余裕はそこまでしかなかった。
 手から一気に力が抜け、火かき棒が転がった。そのままその場に崩れ落ちそうになって慌ててテーブルにすがりつき、何とか椅子に身体を載せる。目の前で湯気を立てているのは、丁寧に潰した柔らかそうな茹で馬鈴薯。肉汁を煮詰めたらしき匂いのソースと半熟卵が掛かっていた。隣に添えられた琥珀色のスープから匙を取って、茹で馬鈴薯を大きくすくい取り、頬張った。
 温められたソースと卵の風味が、馬鈴薯の温かさに後押しされ、口から鼻を抜けて直接脳を揺さぶる。くらくらしながら飲み下し、次のひと匙を口に運ぶ。水分を求めて器ごとスープを傾けては、また馬鈴薯に手を伸ばす。
 ──ようやく周りのことを思いだしたのは、ほとんど空になった皿をなおも幾度か引っ掻いて、最後の一片までこすり取ってからだった。
 顔を上げて周囲を見回す。エーミールはキッチンではない方のドアに寄りかかっていた。軽く腕を組み、やはり目を細めたまま、困ったように首をかしげている。
「……」
 目が合った。
 その静かな瞳の前で、十分ではないとはいえようやく飢餓から解放された頭が、ようやくまともな思考を取り戻し始める。
「……。……!?」
 先刻とはまた違った理由で息が止まるような気がした。
 ──さっき自分は、一体何を言った?……何をした?
「……あ、」
「……落ち着いた?」
「は」
 答えそびれて硬直する『彼』を見て、エーミールは小さく息をついて笑う。
「君の事情はよくわからないけど……別にもうこれ以上、僕や母さんをどうこうしたいってわけじゃない、とは思っていいかな?」
「……も、もちろんだ」
「そう、よかった」
 ドアから背を離し、こちらに歩み寄ってくる姿を見て、その手に先ほどの火かき棒が提げられ、特に意図もなく揺れていることに気づいた。
 自分が食事に夢中になって周りが見えていなかったのは、確かにごく短時間ではあっただろう。しかしその間、その道具があれば『彼』のことをどうすることもできただろうに、エーミールはただドアに寄りかかって『彼』のことを見ていたのだ。少なくとも害意はなかった、と判断せざるを得なかった。
 右隣の椅子を引いて、エーミールは腰掛ける。火かき棒を提げた右手はだらりと床に垂らしていた。同じ椅子なのにやはりあちらの方が視点が高く、少し見上げるようになりながら、『彼』は言葉を探す。
「す……すまなかった、どうかしてた」
「うん、正直だいぶびっくりしたよ」
 エーミールは笑って『彼』の顔を見る。
「でも本当に……市場にいたときもだけどさっきも、ものすごく追い詰められた顔をしてたから。ただ横暴に無茶を言われてるだけじゃないと思ったんだ」
「……悪かった」
 言い訳のしようもない。そんなことを本当に自分がしたとはあまり思いたくなかったが、今さっき何を考えたのかも何をしたのかも、生憎きちんと覚えている。
「本当に悪かったと思ってる。あれ、お前の母ちゃんのご飯だったんだろ」
 エーミールは軽く頷いて、
「うん。まあでも、それはまた作ればいいだけのことだから。……それより、あれで足りたの? お代わりいる?」
「……」
 問われて彼は、自分の腹を見下ろす。とりあえずは落ち着いているようだ。十分な量を食べたとは思えないが、さすってみると微かながら、内臓のかたちが指に触れるのがわかった。それなりに満たされている。
「……いや、いらない。ご馳走さまでした、すげえ美味かった」
 エーミールは気遣わしげに彼を見る。必要以上に痩せてでも見えるのだろうか。
「ほんとう? 遠慮しなくてもいいんだよ。あまり変わったものは用意してあげられないけど、普通の食べ物なら何人分でもそんなに変わらないし」
「いや……何日か食ってなかったと思うから、今はどっちかといえば、これ以上食う方が怖い」
「ああ、そうか。そういうのもあるよね」
 エーミールは納得したように頷いた。その様子を見ていると、疑念というほどではないものの疑問が再び頭をもたげる。
 ……実際問題、エーミールにおよそ『彼』への悪意を感じさせるような行動はなく、食事にも毒は入っていなかった。だが、初対面でこれだけ親切にされる理由も思い当たらない。
 となると、
「……お前もしかして、俺のこと誰か他の奴と勘違いしてるか?」
「え?」
 エーミールはきょとんとする。
「いや、そんなことないと思うよ。どうして?」
「どうしてってお前……初対面だろ、何でここまでしてくれるんだ」
「……あー、うーん」
 考え込むような表情を見せて、エーミールは言い淀む。ややあって、自分の思考の感触を確かめるように、慎重に口を開いた。
「うん、やっぱり、話してみたかったから……かな。こんな小さな町じゃよそ者は目立つ、って言ったと思うけど、僕は『この町の外から来た人』と話がしてみたかった。そのためなら多少のことはしよう、と思ってたんだ。君は、よその人でしょう?」
「……ああ、俺がこの辺の人間じゃないのは確かだな。お前の思ったような奴だったかはわからないが」
 納得が行った──とは言いがたい。しかし、筋はまあまあ通っているのだろう。少なくともエーミールはどことなく嬉しそうにはしていたし、少しは面白がってくれたのだと思いたい。……自分が果たして、面白がってもらえるようなことをしたのかはともかくとして。
 とりあえずの答えも得たところで、さて、と彼は立ち上がる。
「……お前もやることがあるだろうから、俺はそろそろ行く、けど……また寄ってもいいか? 今日の礼をさせてくれよ」
 席を立つ『彼』を見て一瞬沈みかけたエーミールの表情が、ぱっと輝いた。
「お礼なんていいよ、楽しかったから。……でも、また来てくれるなら嬉しいな」
「……お前、ちょっと変わってるよな……わかった、近いうちに来る」
 テーブルを回り込んで玄関に向かう。後からくっついてきたエーミールは、足元に置きっぱなしだった卵の籠を拾い上げながら、あ、と思い出したように声をあげた。
「……そういえばまだ、名前も聞いてない。僕はエーミール、君は?」
「……あー」
 眉を寄せ、少し考える。
「……お前がさっき呼んでたやつ……何だったか。ああ、そう、『ヤン』でいい」
「え?」
 エーミールが不思議そうな顔をするのもまあ当然だ、とは思った。自分だって、人に名前を聞いたときにこんな風に答えられたら妙に思うだろう。
「本当の名前は人に名乗るもんじゃないからな。……それとは別に、ここに来る前に呼ばれてた名前はあるが、俺はもう二度とその名前で呼ばれたくない」
 自分が暗い目をしているのがわかる。本当の名前に少し似たその通り名を、その名で親しく呼ばれた記憶を、思い出したくなかった。それは温かかった分だけ、今の自分を苛んでくる。
 エーミールは言葉を探すような表情で少し黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった、ヤン。それじゃ、また来てくれるの待ってるからね」
 籠を差し出して笑う。
「ああ。……今日は色々ありがとう、すまなかったな」
「ううん。……あ、道わかる? 町外れまで送ろうか?」
「いやお前は母ちゃんの飯作るんだろうが! ひとりで帰れるから心配すんな!」
「あはは。……じゃ、また!」
 エーミールに手を振って見送られながら、『彼』──『ヤン』は路地を抜けて歩いていく。
 まさかこんなにも早く、また他人から名前を呼ばれるようになろうとは思わなかった。そんな風に親しく接する相手ができるなんて、予想もしていなかった。
 ……その名は本来の名とは似ても似つかず、正直なところ今はまだ耳慣れない音でしかなかったが、これからはエーミールがああして楽しそうに呼んでくれるのだと思えば、そう悪い気分でもなかった。