avenge

extra track『アロイスのゲーム』


 自宅のリビングの奥に位置する自室で何冊もの農業の本を広げ、中央に置いた町の地図と睨めっこしながら、アロイスはふふ、と微笑んだ。
 あの鉱山の落盤事故で、大勢の人が死んだ。アロイスの父も犠牲になった。町の人々は静まりかえり、悲しい記憶から逃れようとするように、既に幾人もがこの町から離れようとし始めていた。閉塞感が町を支配しつつあった。……だからこんな中、部屋でひとりで笑っているような変人は、多分自分だけだろうと思っていた。
 それでも楽しいものは楽しい。まるでパズルのようで、純粋に頭を使う喜びがある。
 町のあちこちの土の質や水はけの良さ、日当たり、近くに住んでいる人のことを考え合わせて、いつ、どこに、何を植えるかを決める。地図の隣に別の紙を数枚置いて、季節による景色の移り変わりも考えつつ、手当たり次第に記録した。この花をここに植えるなら作業を始めるのはこの時期、肥料はこの時期に追加して……などと町そのものをゲーム盤のように認識して、楽しみながら考えをまとめていく。
 ……鉱山には、もう見込みがなかった。あの事故の後、智慧を求めてアロイスは森の奥深く、魔女の住む小屋を訪れた。常若の魔女ウルリーケは、あの山はもうやめておけ、と言った。
『あれは元々それほど潤沢な鉱脈ではなかった。それを無理に掘り進めたから崩れたんだ。もうこれ以上手を出すべきじゃない、私の占いにもそう出ている』
『ああ、わかった。あの山はもう二度と掘らないよ』
 神を信じないわけではないがそれはそれとして、古くから伝わる知識を豊富に引き継ぐ彼女の見識も、アロイスは心から信頼していた。
『……だけど、森も山も川も湖も、これ以上何も失わずに町を生かしていくには、何か他のものが必要だと思うんだ。……そうだな、それじゃ、この辺りは水も豊富だし……花を植えるのは、どうかな。たくさんの花を』
『……いいんじゃないか。お前のことだから、きっと上手くやるだろう』
 ウルリーケは笑い、何かが映るとは思えない濁った水晶玉の上で、広げた手をくるくると回す。
『ああ、悪くないな、こんな景色なら私も見てみたい。アロイス、その日を楽しみにしているぞ』
『ああ、待っていてくれ』
 アロイスは笑い返して、小屋を出ようとする。だが水晶玉に目を落としていた彼女はふと眉をひそめると、彼を呼び止めた。
『……なあアロイス。しばらくの間は気をつけろ、何やら狼たちが騒がしい。近々、この町にも人狼が出るかも知れないぞ』
『人狼が……?』
 自分が生まれてこの方、この町どころか近辺のどこにも出たと聞いたことのない伝承上の化け物の名に、アロイスは少し不思議に思う。とはいえ自分は今まさに、いつから生きているとも知れない魔女と話しているのだから、否定する気は起こらなかった。
『わかった、注意するよ。ありがとう、ウルリーケ』
『ああ。……もし次にここに来ることがあったなら、できれば蜂蜜を持ってきて欲しい。うっかり蜜蜂を逃がしてしまってな、しばらく切らしているんだ』
『そうか、覚えておくよ。それじゃ』
 彼女とは笑って別れた。……その顔が少し寂しそうだったような気がしたのは、一体何故だったのだろうか。
 ただ少なくとも町を花畑にする計画は彼女のお墨付きだ、必ず成功するに違いない。
 この花の種子からは油が取れる。こちらの花の球根はあまり近辺で多く出回っていないから、これも商品にできるかもしれない。花畑だけでも十分人を呼べるものになるだろうとは思ったが、それが軌道に乗るまでの人々の収入源も確保しなくては。ページを繰り、手を真っ黒にしながら記録を取っていく。
 ──アロイスは未だかつて、自分が善人だと思ったことはなかった。人のやる気を引き出して少しだけ高みに引き上げ、その人物の最善の状態にまで持ち上げてやる、そういう才能がどうやら自分にあることはかなり昔から認識していたが、それは使い方を間違えればただの傲慢と横暴にしかならない、さほどありがたくもない能力だと思っていた。だから彼はじっくりと人を見て、本当に必要なときだけそうするようにしていた。あらゆる人に好かれるのはその慎重な計算と力加減によるものであって、決して彼の善性によるものではないと自認していた。本当に善いものというのは、何をしなくてもただそこにあるだけで善いものなのだ。
 彼は奥の寝室で眠る妻と子供のことを思った。彼女の穏やかな微笑みと彼の無邪気な笑顔は、いつも彼をこの上もなく元気づけてくれた。
 そう、二人のためにも、この町を立て直さなくてはならない。明るく希望に満ちた未来を紡がねばならない。そのために使うことができるのならこの才能も、決して悪いものではないと思えた。
 アロイスは夜を徹して構想をまとめ上げ、一通り清書して紙を畳むと、少し白み始めた空を窓から見上げて部屋を出た。少しくらいは眠りたいが、これから寝室に入ったら二人を起こしてしまうかもしれない。近くにあった上着を引っかけてリビングの長椅子に寝転ぶと、ゆったりと目を閉じた。
 この悲嘆を超えて息を吹き返す町を、そしてそこで愛するもの全てと共に生きていく未来を思いながら、彼はゆっくりと、眠りに就いた。