avenge

10-2.


 ……大きな声を上げられる直前の隙をついて、どうにかヤンを無事に気絶させることができた。ルドルフは額の汗を拭うと、ふう、と大きく息をつく。ぐったりと横たわる少年の周りを見回し、肩からかかっていた鞄に目を留めると、その中から茶色い油紙の包みを取り出した。中に入っていた細身の革手袋を着ける。
(──悪く思うなよ)
 一度だけ、少年のために瞑目する。彼の体を抱え、血の臭いのするリビングの中に引きずり込んだ。
 ……この少年とは既に和解して、幾分仲良くなってすらいた。第一印象はお互いに最悪の極みだったろうが、彼を屋敷に引き取ったその日のうちにジルヴェスターから説明を受けたのだ。前日ルドルフを挑発して制圧したあれはエーミールを守るための芝居で、彼は友達思いの純真な少年だ、と。
 確かにルドルフもあのときには何かぎこちないものを感じてもいたので、その説明には納得できた。単に、それでも突っかけていくのがああいう状況での自分の役割だ、と理解していただけだ。
 その後、彼が直接ルドルフのところに謝りにきたのだが、確かに人を疑うことを知らないまっすぐな性格をしていそうだった。あっという間に犬のように従順になっていたので内心ちょっと笑った。
 だがそれでも、ここ一番での彼の度胸はたいしたものだった。
 あの状況で、唯一の武器である包丁を躊躇なく捨てて囮にし、体格で自分に勝る相手を徒手で制圧するという判断。彼と同じ歳だった頃の自分にそれができたかどうか、と思うとあまり自信がない。もしかすると、自分に力がないという自覚があれば案外できるものなのかもしれないが。
 しかしそれでも彼は所詮子供で、まだまだ詰めが甘かったということなのだろう。ジルヴェスターは既にあのとき彼の正体を見抜き、すぐさま懐柔して、こうして自らの手中へと誘い込んだのだから。
 ……恐らく彼は気づけなかっただろう。あの秀麗な笑顔の下で、自分がまさかこれほどの悪意を向けられていようとは。
 そう思った辺りでようやく手が止まっていることに気づき、これ以上余計なことを考えていてはいけない、と首を振った。
 屈み込み、横たわる少年の位置を調整する。椅子に座ったままのラルフの死体の左手側、死体に頭が向くように。それから油紙の包みに入っていた二つ目の中身、狼の頭骨を取り出した。以前どこかで仕留められただけの、ただの狼のものだ。
 立ち上がってラルフの首の傷を確認する。先ほど自分でつけたものだ。酔って寝ていたらしい彼の背後から忍び寄って掻き切ったそれは、今の段階ではどう見ても、鋭利な刃物による傷口だった。
(……ジルの旦那、俺は最近、あんたが怖えと思うよ)
 これに近い頼まれごとは今までにもなくもなかったが、直接的な殺人を含むものはさすがに初めてだった。今でも彼が自分のことを、汚れ仕事を任せていい相手だと認識していたことには、内心少し安堵したのだが。
 ラルフの首筋に狼の頭骨を軽く当ててみて、どういう風に細工するか考える。
 ──この殺しを、人狼であるヤンの仕業ということにしろ、と言われていた。つまりラルフの家を訪れた人狼ヤンがラルフを襲い、致命傷を負わせたが、瀕死のラルフによる反撃に遭って気絶した、という筋書きだ。そのための道具はすべてヤンに持たせてあり、細工が終了すればヤンが何をしにここに来たのかを証明する手段はない、という寸法だった。
(随分えげつねえこと考えやがる。……だが、今回は頼ってくれただけマシか……)
 奥歯を噛みしめつつ傷口への細工の方針を決め、ラルフの柔らかな喉の皮膚を狼の牙で引き裂き始める。細かい血の飛沫がヤンの顔に飛び散っていく。意趣返しをさせてやる、と以前にジルヴェスターは言ったが、ヤンに対してここまでのことをしなくてはならないほどの理由があるのかといえば、少なくともルドルフにしてみたら、別になかった。……とはいえ今となっては、ジルヴェスターがそうしようと決めたことに逆らうわけにもいかなかったのだ。
 そこまでの理由がない、といえばこのラルフもそうで、自警団長と言うものの町が寂れ始めてからは率いる団員も後継者もなく、ただ不遇をかこちながら毎日酩酊しているばかりの寂しい老人でしかなかった。今回ジルヴェスターが彼を選んだのは、ただ単に彼が耄碌してから、しきりにかつての鉱山の話をするようになっていたからにすぎない。ラルフは今の鉱山の状態など知りもしなかったはずだが、彼以上に殺されるべき相手が他にはいなかった、というだけの話だ。
(……すまねえ、ラルフ)
 喉の傷を一通り荒らし終えて、ラルフの体を椅子に戻す。右手と胴体はテーブルの上に、左手はテーブルからだらりと垂らした。その下にヤンが持ってきた荷物の中身の最後のひとつ、ラルフがいつも飲んでいた銘柄のウイスキーの空き瓶を配置する。一度ラルフの左手に握らせて軽く指紋を付けてから、少し遠くに立って眺めてみた。少し違和感があるので、もう一度寄って位置を調整する。
 ヤンはまだ目覚めもしない。確かに最近しきりと眠そうにしているとは聞いたが、呑気なものだ。けれども血の臭いが濃いから苦しいのか、少し眉を寄せていた。
 ──きっと彼の性格では、屋敷に引き取られてからここに来るまで、一度たりともジルヴェスターを疑ったことなどなかっただろう。つい、可哀想にな、と思ってしまう。
 だが、命じられたことに手を抜くわけにもいかなかった。ルドルフが言った通りにしなかったと知れば、今度こそジルヴェスターはこの手を離してしまうかもしれない。それは、今よりもなおいっそう悪い事態を招くことのように思えた。
 最後の仕上げとして、既にどろりとし始めたラルフの血を革手袋の指先に掬い、ヤンの頬と口元になすりつける。苦しげに口が開いたので、その中にも少し指を差し入れて汚した。意外に鋭い犬歯が見える。お誂え向けだ。ヤンは微かに喘ぐようにしたものの、まだ目は覚まさない。
(……恨むなら恨め。悪いとは思ってる)
 油紙に狼の頭骨を包んで懐にしまい、リビングのの入り口に立つと、もう一度振り返って部屋の状態を確認する。人狼による襲撃事件の現場と見なすには、十分な光景だった。
 あばよ、と小さく呟いて、ルドルフは廊下の奥の裏口から外に出た。何食わぬ顔で細い路地を歩いていく。あまり遠くない場所から、往診に来た医者に礼を言うらしき声が聞こえた。
 商人たちに絡むために広場に戻ろう、と思う。だが懐に証拠を抱えた身であまり人前に長居はしたくない。ヤンが早いところ目を覚ましてくれるといいんだが、と勝手なことを思った。