avenge

10-3.


 息が苦しい、と思って目が覚めた。
「……っ、う……」
 ヤンは小さく呻いて身を丸めた。木の床に接した頬がぬるりと滑り、濃厚な血の臭いを感じる。……いや、片鼻が何かで詰まっている。鼻血を出したときに似ている。ということはこれも、血だ。
「っ」
 それに気づいた途端、気を失う前のことが脳裏に鮮明に蘇ってきた。急に血圧が上がって心臓が跳ねる。
(……襲われた!?)
 慌てて目を開け、体を起こそうとする。そこで、ヤンは再び『それ』を見た。
 初めに目に入ってきたのは力なく投げ出された老人の脚。それを辿っていくと床に倒れた身体。こちらに向けられた腕は真新しい傷口で終わっていて肘から先がない。その向こうにある胴体が何か鋭いもので無残に切り裂かれている。そして、あちこちにこぼれ落ちた赤黒い液体。
 ざっ、と血の気が引いた。息をすることも忘れて、ばたばたばた、と手足を動かす。後ずさった背中が何かに突き当たる。途端に頭の上から何かが落ちてきた。
「……っっっうわああああああああああ!!?」
 こんな声が自分のどこから出てきたのか、と思うほどの悲鳴を上げて、ヤンは棚の上から落ちてきたメモ帳から必死に逃げ出した。

 ラルフの家の方から悲鳴が聞こえた。顔なじみの商人たちと周辺の噂話をしていたルドルフは、ん、と顔を上げた。
(……やっと起きたか)
 おおよそ、あれから三十分ほどになるだろうか。
 このタイミングだけは操作のしようがなかった。ああまでしても目を覚まさなかったから少し心配していたが、どうにか人の多いうちに起きてくれたようだ。
「……おい、何だ? 悲鳴が聞こえたぞ?」
 商人たちがざわめき、広場を見回す。ラルフの家のドアが内側から叩かれて小さく揺れている。人々の半分ほどは恐ろしそうに身を寄せ合った。体格のいい商人が二人顔を見合わせてラルフの家の方に歩き出すところに、横からルドルフは合流する。まだ仕事が残っている、というよりむしろここからが本番だ。
「出して! ここから出してくれ! 助けて!」
 ドアの向こうからパニックに陥っているらしいヤンの声と、ドアの下の方を必死でどんどんと叩く音がした。……腰でも抜かしているのだろうか。そこまで恐ろしい状況にしたつもりもないが、普通はそう感じるものだろうか。
 商人たちと目配せを交わしあい、ドアノブを捻ろうとする。
 ──開かない。
 鍵がかかっているような手応えだった。
(……は? 表の鍵なんかかけたか……?)
 自問する。いや、掛けたはずがない。最後に入ったのが血に酔った人狼であるヤンなのだったら、掛かっていては客観的にもおかしいと思って掛けなかった。
「おい、誰だか知らんが鍵がかかってないか! 開かないぞ!」
「わかんねえー!!!」
 横から見ていた商人の問いに、間髪入れず、泣きそうな悲鳴が応えた。中からなら鍵の状態がわからないはずはないが、どうやら完全に混乱しているようだ。
「……ちっ、じゃあそこ退いてろ! ドア破るぞ!」
「わ、わかっ……」
 返事を待たずに、荷物を下ろした商人の一人と共にドアに体当たりをする。こちら側に引くドアなので丸ごと外れるという当てもなく、板自体を破壊しない限り開けようがない。
(……ええいくそ、手間かけさせやがって!)
 ドアに体当たりする痛みに顔をしかめながら、何度か繰り返す。そこまで分厚いわけでもないドアの板がやっと少し歪んで裂けたので、体重を乗せた足裏で無理矢理踏み折って外す。顔を血塗れにしたヤンが、ドアの右の小さなスペースで震えていた。
「……何があった!」
 ドアを踏み越えて商人のひとりがヤンに問う。彼はがたがたと震え、これも血塗れの右手でリビングを指さして、
「ひ、ひと、人が死んでる、ああ……」
 言うとぎゅっと体を丸めて頭を抱えた。逃げられては困るので、何気なさを装ってその手首を掴んでおく。
「……うおっ」
「……これはひどい」
 ルドルフの背後、少し廊下を進んでリビングを覗き込んだ商人二人が、それぞれに一瞬絶句して後ずさる。
「……じ、人狼だ! 人狼が出たぞ!」
 ドアを破っている間に家に近づいてきていたもう一人が、二人の肩越しに部屋を覗き込むなり大声を上げた。
 ……実は彼は、今の言葉を言わせるためにあらかじめ仕込んであったサクラだ。ちら、とルドルフを見て非難がましい目をしているが無視する。金をもらっているのだから真面目に仕事をしろ、人に頼るな、と思う。自分にもまだやることがある。
 そこでルドルフはヤンの顔を覗き込み、今気づいた、と言うように呟いた。
「……おい、お前……その顔……」
 頬から口にかけて、ここまでやった覚えがないというほど血塗れだが、床の血だまりが流れてきてしまったのだろうか。言葉につられてこちらを見たか、背後で商人三人が揃って息を呑んだ。サクラではないうちの一人が声を上げる。
「……これをやったのは君か……!?」
「!?」
 ヤンが驚愕に目を見開く。
「なっ、何でそうなるんだよ……!」
 何を呑気な、と思うが、なるほど本人には自分の顔が見えていないのだ、と気づいた。
「……おい、誰かこいつに鏡見せてやれよ。俺は手が離せねえ」
「ル、ルドルフさん! 何でこんなことするんだよ!」
(それが仕事だからだよ)
 思うが、もちろん口には出さない。真剣な顔でヤンを睨みつけていると、背後から商人の一人が、恐る恐る、といった仕草で鏡をヤンに突きつけた。ヤンが自分の顔を見て、口を開いたまま硬直する。その幾分鋭そうな前歯と犬歯に、唾液で薄まった血がまとわりついているのを見て、商人たちが数歩後ずさった。
「……お前がやったのかよ」
 手首を掴む手に力を込める。ヤンは動揺した声で叫んだ。
「違う! お、俺は神父さんに頼まれて荷物を届けに来ただけだ! そしたら急に後ろから誰かに殴られて、起きたらあんなことに!」
「あん? そんな証拠がどこにあんだよ」
「信じてくれよ!荷物、そうだ、持ってきた荷物があるはずだ! 茶色い紙包みが! 俺が持ってないんだからきっとそっちに!」
 片手で自分の鞄の中を引っ掻き回して荷物がないことを知り、ヤンが叫ぶ。
(残念だが、そんなもんもうどこにもねえ)
 とっくに開封して、残りのほんの少しが自分の懐に入っているのだから。ヤンの言葉を受けた商人の一人が嫌そうに部屋の中を見回して、首を振った。
「……見当たらんな。お前、いったいここに何をしに来た」
「そんな! ……し、神父さんが知ってるはずだ! 神父さんに聞いてくれよ! あの人なら証明してくれるはずだから!」
 心の底からジルヴェスターを信頼しているらしき言葉を聞いて、つい内心が顔に出そうになったが、もちろん堪えて真顔を保った。
「……あー、しょうがねえな。どっちみちラルフがやられたとなりゃ、今こういうのを仕切れるのはジルの旦那ぐらいだろ。ちょうどいいからこのまま俺が屋敷まで連れて行くよ」
「ルドルフさん! 何であんたが信じてくれないんだよ!」
(……しょうがねえんだよ)
 重い腰を上げ、立とうとしないヤンの腕を無理矢理引っ張り上げて立たせる。
 さて、これで見落としはないか、と最後に少し奥に進んでリビングを覗き込んで──
「……っうおおおおおおおお!?」
 ルドルフは自分でも思いも寄らなかったような声を上げてしまった。
(待て待て待て待て!!?)
 思っていたのとまるで違う凄惨な事件現場。ウイスキーの瓶はまるで関係なく部屋の隅に転がっており、首の傷口になど誰も目をやらないほどの大きな開口部がラルフの腹にぱっくりと開いて内臓が欠損している。周囲は血だらけだ。
「っ」
 驚きのあまり少し緩んだ手を無理矢理もぎ離して、倒れ込むように駆け出したヤンが、玄関のドアを乗り越えて飛び出していく。
「……あっ、おい、てめえ!」
 反応が遅れた。慌てて追いかけるが、ヤンは体を低くしたままあっという間に広場を横切って駆け抜けていく。遠巻きにしていた人々が悲鳴を上げて散り散りになるのを横目に、ルドルフはたった今ヤンがが飛び込んだはずの路地に駆け込んだ。
 ……いない。どういうわけか影も形もない。
(……! 何てこった、しくじった……!)
 一瞬立ちすくむが、必死で頭を動かす。これは──いくら何でも想定外だ。急いでジルヴェスターに知らせないといけない。
 ルドルフは後も見ず、屋敷に続く道を走りだした。

 ヤンは混乱していた。必死で玄関まで這いだして腰の立たないままドアノブを引っ張ったが開かなかった。ドアを叩いて助けを呼ぶと少しして、大柄な男二人と見知った顔がドアを破って入ってきてくれた。
 ……ルドルフのあの傷のある顔を見た瞬間、ヤンは本当に安堵したのだ。
 それなのに彼は自分の手を険しい顔で掴み、お前がやったのか、と言った──
(うわああああああああああ!!!)
 混乱していた。とにかくここから逃げ出したいと思った。
 リビングを覗き込んだルドルフの手が緩んだ、その隙に必死で拘束から抜け出してきた。細い路地に飛び込み、急速に方向転換する。上に。一瞬で高くまで昇り、混乱のままに身をくねらせてのたうつ。
(誰か、誰か助けてくれ……!)
 わけのわからない状況に頭を抱えるような気分でぐるぐると宙を回っている間に、求めるその『誰か』がやっと頭の中に像を結んだ。
(……エーミール! エーミールならきっと信じてくれる!)
 この状況で求められる唯一の救いを思い描いたら、もう止まらなかった。ヤンは光の矢のように、屋敷を目指して飛んだ。