avenge

10-4.


 エーミールは自室の壁に寄りかかり、重い息を吐く。
 既に焦りは通り越して、半ば以上諦めの境地に達していた。どんな策を練るにも、どんな風に崩すにも、三日間では短すぎた。ユーディットは約束通り紙片を二人の元に仕込んでくれていたようだが、いくら張り込んでいてもジルヴェスターもルドルフも微かな警戒しか見せず、鼠がいるようだ、とわずかに会話しただけだった。
 ……確かに、『お前の秘密を知っているぞ』という文言ではあまりに浅すぎるとは思ったのだ。しかし三日で何らかの反応を引き出せそうな手をとっさに思いつかなかった。家から持ち出せたもののうち、自分の身に危険が及ばず、少しでも期待が持てるものがそれしかなかった。
 何より、ジルヴェスターには自分の筆跡が完全に割れている。他の筆跡の特徴を真似てごまかそうと思うと準備に時間がかかる上、途中で発見されたら目も当てられない。たまたま昔ふざけて書いた、今の筆跡とは似ても似つかないあの紙片が家に残っていたのは、運がよかったのか悪かったのか。
(……ここを離れても二度と戻れないわけじゃない……次までに十分な準備ができればそれで……)
 言うまでもなく、ここに至るまでにも何もしてこなかったわけではない。ただ本当に欲しいものを得るには、これまでの立ち位置は浅すぎた。
 ──すべてを第三者の目に晒すための物証。それ以外なら何とでもなるのに、一番欲しいそれを手に入れることができないで来たのだ。
 だがもちろんここに来たからと言って自由に探せるわけでもなく、ジルヴェスターのお気に入りを演じながらそれほど無茶ができるわけでもない。どうあっても三日。ジルヴェスター本人を動かして隠し場所を示させる以外の手段がなく、そのための有効な手立ても思いついていないとあっては、最初から実質的に詰んでいた。
 ……だが。それでも。
(諦められるか……あんなことをされて……!)
 胸の中の歯車は猛烈な勢いで黒い炎を汲み上げて、エーミールに絶望することを許さない。けれど炎は思考を蝕むばかりで、何も有効な策を与えてはくれない。
 ぼんやりと目の前の机を見る。言うまでもないが渡された課題は開いてもいない。どうせもうジルヴェスターに逐一添削されるわけでもないのだから、そんなものはどうでもいい。
 ただ本当ならジルヴェスターの行動をずっと見ていないといけないのだが、気だけは焦るものの、動くにはもう、あまりにも体と心が重かった。
 ……そのとき、視界の隅を気がかりなものがよぎった。窓。窓の向こうを今、細長い銀色の光が。
(……ヤン!?)
 一瞬ばらばらになった思考が頭の中で衝突する。どうしてその姿で。何があった。誰かが見ていたら。
 だが少なくとも何かまずいことがあったのだけは間違いない、と確信する。ヤンはここに来てからは、自らきちんと正体を隠していたのだから。それが今あの姿でいるということは、人の姿では対応できない何かがあったのだ。
 ……ぞくり、と悪い予感がした。何かが考えから抜けている。今とにかく動かなければいけない。慌てて部屋を出る。今の軌跡から見て、ヤンが落ちたはずなのは屋敷の周りを囲む木立の中だ。
 飛ぶような勢いで階段を駆け下りる。誰よりも先にヤンを見つけなくてはならない。
屋敷を飛び出し、ぐるりと周囲を見回す。木立の中でも一番屋敷に近いあたり、真っ青な顔でヤンが立ち尽くしているのをすぐに見つけた。顔と右半身の衣類にどす黒い血がついている。
「ヤン、どうしたの、何があったの!」
「……エーミール……た、助けてくれ……」
 実りのない会話に、思わず一瞬苛立ちかける。時間がないというのに何を呑気に。……そう思った瞬間、また一本の線がつながった。
(……!)
 今まで何が考えから抜けていたのかを、瞬時に完全に理解する。
(僕が外の世界を知って変わるようにと寄宿学校に送られるなら……『これまでの僕』の親友であるヤンは邪魔者でしかないのか!)
 つまりジルヴェスターが寄宿学校の話を今まで伏せていたのは。『真面目で勤勉なエーミール』に対して渡されたあの課題の束は。
 短い制限時間で自分の思考の余裕を削り、ジルヴェスターがヤンをどうにかしようとする今このときに、決して自分が間に合わないように。
 ──胸の奥でまた、歯車が加速するのを感じる。思考が黒く燃え上がりそうになる。
「……が、あっ……!」
 溢れ出そうな憎悪に必死で歯止めをかけた。これ以上その事を考えたらとても耐えられない。暴発してしまう。浅い呼吸を何度か繰り返してから、ようやく深く吸い込んで、吐いた。
 ヤンの両肩に手を置き、その目を見つめる。
「ヤン、ごめん、時間がない。落ち着いて。何があったの!?」
「っ」
 ヤンの顔が恐怖に引き攣る。いけない、怖がらせてはだめだ。エーミールは必死で平静を保とうと呼吸を整える。ヤンは動揺して声を震わせながら何とか答えはじめる。
「に、荷物、荷物を届けに行ったんだ。そしたらそこで人が死んでて……俺、そうだ、後ろから殴られて首絞められて……起きたらこうなって……」
「……!」
 つまり殺害の濡れ衣を着せられそうになって逃げてきた、ということかと大まかに理解する。……大当たりだ。ジルヴェスターは完全にヤンを始末しに来ている。とにかく今は逃がすしかない。
 胸の内で言葉を編み上げる。決して戻ってこないように、彼を今すぐここから遠ざけなくてはいけない。
「……わかった。ヤン、大丈夫、僕は君を信じる。その上でお願いだよ、今回だけは聞いて欲しい。今すぐここから逃げて、僕は大丈夫だから」
「……」
 ヤンの瞳が揺れた。畳みかける。
「もちろんそうだ、君がどこにいるかは君が決めていい。でも本当にここは危ないんだ、今、ここに、君がいたら駄目なんだ。逃げてくれさえすればいつかまた会える日もきっと来るから」
「……ぁ」
 ヤンが何か言おうと口を開き、ほとんど息だけを漏らして閉じる。口の中にまで血がついていた。可哀想に、とエーミールは眉を寄せる。
「……多分君はまだ聞いてないと思う。僕は明日、寄宿学校に送られるんだ。たとえ君がここに留まってくれても、もう僕は、君とはいっしょにいられない。だから、今すぐ逃げて」
「……!」
 ヤンが硬直したのがわかった。
「重ねて言うけど僕は大丈夫だよ。ちゃんとできる。僕はこういうところで、人の間で生きるのに慣れてるから。……でも、君は多分そうじゃない。僕は君に、もうこれ以上無理をしてほしくない。だからお願いだよ、今のうちに──」
「──そのまま動くな、エーミール。まさかお前が人狼を匿っていたとはな」
 ……唐突に。
 背後からジルヴェスターの声が響いて、今まさにヤンに最後の一押しをしようとしていた喉が凍りついた。