avenge

10-5.


 そろそろ昼か、とジルヴェスターは執務室の時計を見上げた。
 ルドルフがここを出たのはいつも通りの朝食後の刻限、ヤンを出発させる一時間ほど前だった。ラルフの家がある広場まではゆっくり歩いて約三十分。ヤンがもし走って行っても、余裕で仕掛けが間に合う時間だ。恐らく今日の元気のなさそうな様子では、ヤンは歩いていっただろうが。
 ルドルフの技量と、汚れ仕事への躊躇いのなさは信頼していた。今回は細かい指示もした。彼はきちんとその通りにやるだろう。見た目に似合わず彼は几帳面で、それなりに頭のよく回る男だ。
 ただし今回の計画で唯一不安なのは、ヤンが目覚めるタイミングを操る手段がないことだった。予定通りならヤンは間違いなく、誰より先に嫌疑がかかる姿になっているはずだが、ルドルフの他に目撃者がいてくれなければ、人狼として処刑するには少々根拠が弱い。広場に人が多いこの時間帯のうちには、何とか目を覚ましていてほしい。
 だがそればかりは仕方ない。待つ以外にどうしようもない。
 けれども気が落ち着かなくて、立ち上がって窓に歩み寄り、外を眺めた。晴れ渡った青空。見慣れた町並み。あの頃に比べて随分減ってしまった人々のことを思う。
(ああ……鉱山さえもう一度運用できていたなら……)
 落盤事故で失われてしまった鉱脈を探すため、密かに資金を集め、通路を補強して掘り直させているが、未だに次の鉱脈の確たる手応えは掴めていない。あのとき町の人々が自分の主張をきちんと耳に入れてくれていたなら、あるいは、もっと早くそれを進めることができていたかもしれないのに。
 ……考えても詮のないことだ、と首を振る。何となく左を向いた視線が、そのとき、信じがたいものを捉えた。──屋敷周辺部の木立の中にヤンがいる。予定通り、いやそれよりもだいぶひどい姿になっているのに、あろうことかエーミールが彼の肩を掴んで何やら話している。
(……何をやっている、ルドルフ!)
 衆人環視の中でヤンを捕らえ、そのままルドルフがここまで連れてくる手はずだったのに、どうしてルドルフが到着しないうちにヤンがここに戻っているのだ。少し慌てて部屋を出る。
(いや……確かにあの少年には他に行くところなどなかったはずだ、逃げたとしてもエーミールのところに戻るのは自然……だが、なぜエーミールがあそこに?)
 足早に階段を駆け下り、二人のところに駆け寄った。思ったより厳しい表情になっていたのか、自分の姿を見たヤンが表情を強張らせた。
 ……なぜかルドルフが戻らないとは言えヤンはもう十分な姿になっている。エーミールはこの姿を見ても彼を信じていたようだが、それは折り込み済みだ。
 しかしどうも少し予定と違う気がするが、ここでヤンを逃がすわけにはいかなかった。このまま進めることにする。
「──そのまま動くな、エーミール。まさかお前が人狼を匿っていたとはな」
 エーミールがヤンに懇願していた声をぴたりと止めて、愕然とした表情で振り返った。

(……何だって?)
 人狼の嫌疑──なるほどそれなら口内にまで血がついているのも納得がいく。状況は大体わかった。
 だがエーミールが凍り付いた喉を溶かして次の言葉を探し、ジルヴェスターに向き直るまでには、若干違う意味で少し時間がかかった。
「……な、んですって? 人狼? ヤンが?」
 無理矢理出した言葉が何だかおかしくて、思わず少し笑ってしまいそうになった。おや、自分はあまり平静ではないかもしれないな、と他人事のように思う。
 しかしヤンが人狼、とは、なかなか奇抜な嫌疑だった。考えるまでもなくそれだけはありえない。ヤンは蛇であって、決して狼ではない。もちろんジルヴェスターにそんなことが言えるはずもないし、おくびにも出すわけにはいかないのだが。
「ああ。……自警団長のラルフが殺された。やり口から見てどうもそこの人狼の仕業らしい。……知っていて匿ったのではないのだね、安心したよ」
 平然と見下ろしてくるジルヴェスターを見て、何を白々しい、と胸の内で吐き捨てた。
 ……さあ、とエーミールは思案した。どう動く。どう庇えばヤンを逃がせる。ジルヴェスターの殺意がヤンに向かっているなら、彼そのものを説得できる可能性はゼロだ。説得可能な第三者がいてくれなければ手の打ちようがない。
 ……ならば時間稼ぎだ。外面を保ったままでの現状維持。誰かが来るまで引き延ばす。
「……お父様、ヤンは人狼ではありません。母さんが亡くなるまでの数ヶ月、ずっと一緒に暮らしていたけれど、そんな素振りは一つもありませんでした」
「いや、人狼とは普通のときには人と区別のつかないものだという。お前が見てきたものが嘘だとは思わないが、その少年はラルフを殺した」
「こ、殺してない!」
 ヤンが声を上げる。
「俺はただ、あんたに頼まれた届け物を持って行っただけだ! 覚えてるだろ!」
「わたしが頼んだ、だと? 知らないな、何のことだ」
「……!」
 ヤンが愕然とした表情になる。エーミールははっとして彼の手を握った。小声で囁く。
「ヤン、しっかりして。大丈夫。僕がついてる」
「……あ、ああ」
 明らかに衝撃を受けた表情で、それでも手を握り返してくるのを感じて安堵した。『仕事だと騙された上で裏切られた』という構造に気づいていれば、それは彼にとっては特に心をかき乱すもののはずだが、さしあたって自失してはいないようだ。
 向こうから誰かが来るのが見え始める。……残念、ルドルフだ。彼はジルヴェスター側だ。引き延ばしを継続する。少し声を張り、屋敷の誰かが気づいてくれることに期待する。
「僕はヤンのことを信じます。彼は僕に、殺していないと言った。届け物を持って玄関から入ったらラルフさんは既に死んでいて、そのあと急に後ろから誰かに襲われて、気がついたら血まみれになっていたのだと言いました。誰かが彼に濡れ衣を着せようとしているのです、理由はわかりませんが」
 大方の状況を想像して、主張する。
 馬鹿らしいやりとりだ。誰かも何も、目の前にいるではないか、その張本人が。
「そ……そうだ、返事がなかったけど鍵が開いてたから入ったら、ラルフさん、が椅子に座って死んでて。驚いてるうちに後ろから殴られて、気がついたら腕がなくなってて、はらわたが出てて、血まみれで」
 ヤンが半ばうわごとのように言うのを聞いて、ジルヴェスターが一瞬眉をひそめるのが見えた。……何だ、今の反応は。この程度の死体の描写に耐えられないような繊細な男ではないはずだ。……となると何だろう。つけいる余地のある隙だろうか?
 ……そのとき、向こうからよろよろと走ってきたルドルフが、息も絶え絶えでようやくジルヴェスターの足元に倒れ込んだ。空気を求めて仰向けにひっくり返る。あまり精悍とは言えない胸が空気を求めて上下する。やがてその口から、途切れ途切れの声が漏れた。
「だ、旦那、大変だ。人狼だ。人狼が出た」
 ジルヴェスターはその表情を覗き込んで、ひどく困惑した顔をした。

 ジルヴェスターは確かに困惑していた。
 この状況になってしまえばエーミールが素直に従いはしないだろうことは、もちろんあらかじめわかっていた。彼は聡明で利発なよい子どもだが、だからこそ唯一無二の親友を庇わないはずはない。というより、エーミールが自分の知らないうちにそうした間柄の友を得てしまったからこそ、ジルヴェスターは消さなくてはならなくなったのだ、その友を。楽園に出現した誘惑の蛇を。……できればまだこの時点でエーミールとヤンを出会わせたくはなかったが、出会ってしまったものは仕方がないのでそれはいい。
 だがヤンが語る死体の状況が指示と違う。違いすぎる。一瞬、何を想定して話せばいいのか整理がつかなくなる。
 ……そんなとき突然背後から足元に転がり込んできたルドルフは、息を切らしてしばらく何も言えずに目線で何かを訴えてきていたが、残念ながらその混乱した表情から、ジルヴェスターは何も読み取れなかった。
 やがてルドルフの口が、やっとのことで言葉を紡ぐ。
「だ、旦那、大変だ。人狼だ。人狼が出た」
 ──お前、今そんなことを言ってどうする。わたしはもう人狼を問い詰めているところなんだぞ。
 思わずそう咎めたくなるが、それは明らかに口に出すわけに行かない台詞だった。『人狼だと?』と言うのもおかしい。人狼はもうさっきからここにいるのだから。
 人狼。……人狼?
 ……人狼が出た、と言ったか、今?
 鉱山から人を遠ざけるため、最近西の森に人狼が出るらしいと噂を流したのは自分だが、ここ何十年も出なかったのによりによって今、本当に、本物が出たと?
「……は?」
 滅多にないことだが一瞬何を言えばいいのかわからなくなって、思わずただの吐息のような声が漏れた。