avenge
10-6.
「……は?」
目の前でジルヴェスターが漏らした声に一瞬虚を突かれ、エーミールは目を瞬く。
(……え、ええ?)
彼のこんな顔を見たのは初めてだった。とてつもなく大きな隙だった。しかしどう攻めればいいのかわからない。急いで頭の中を整理する。
今ルドルフが外から帰ってきたと言うことは、多分ヤンを背後から殴り、血まみれにして事件現場に転がしたのはルドルフその人だ。その彼が慌てて帰ってきたのは、多分何か想定外の事態が起きたからだ。これは多分、その途中のどこかでヤンが逃げたということだろう。
ならばジルヴェスターがさっき反応した言葉は何だったか──そう、ヤンが現場のことを話したときだ。
(……つまり、ジルヴェスターが想定したのと現場の状況とが食い違っている、のか?)
だがそれはあまりこちら有利には働かない。現場の状況がどうあれ、容疑者がヤンしかいないのなら説得の材料にできない。というか頼むからもう早く誰か来てほしい。そんなに屋敷とは離れていないのに。
屋敷の方を見た。……ユーディットが、何事だろう、という顔で一階北の角部屋の窓からこちらを見ている。無駄かもしれないとは思いつつも、ルドルフとジルヴェスターが顔を見合わせているのを横目に確認して、二人に見えないよう気をつけながらユーディットに向かって『こっちに来い』と手招きする。
「……、だから、このヤンが人狼なのだろう?」
たっぷり三十秒近くも黙った後で、ジルヴェスターがようやくルドルフに向けて口を開く。ひっくり返ったまま喘いでいたルドルフが顔を上げ、エーミールの背後にヤンの姿を確認して目を剥いた。
「な、何でお前がここにいるんだ。俺は広場から全力疾走してきたんだぞ」
「……あ、それはその」
まずい、そこはむしろこっちの泣き所だ。突っ込まれると厳しい。ユーディットに急いでこの場にたどり着いてほしい。できれば誰か連れてきてほしいところだが、この際贅沢は言わないから。
「……と、とにかく! そんな血まみれの姿で何を言っても聞く耳は持てない! ヤン、君は拘束させてもらうぞ!」
叫んだジルヴェスターの後ろにようやくユーディットの姿が見えた、のだが。
「……納得できません! きちんと調べないでそんなことさせるものか!」
エーミールも間髪入れず、大声を上げる。
だめだ。彼女が着いてもこの状況では間に合わない。
こうなったら何が何でもヤンを逃がすか──いや、だがしかし。
(しまった、だめだ……!)
ヤンがルドルフを追い越してここに帰ってくることができた理由。自分がヤンに逃げろと話していたこと。ヤンの翼ある蛇としての姿を見てしまえば、ジルヴェスターなら必ず、自分がヤンの正体を知った上で付き合っていたことにたどり着くはずだ。それはぎりぎり致命的ではないが、もし復讐を諦めずこの場を離れないことを選ぶのなら、あまりにも危険すぎる露見だった。自分にはそれだけの隠し事ができる、という確証を与えてしまう。
……だが、だからと言って。
諦めるのか?この怒りを?
意識したとたん、抑えていた炎が燃え上がりそうになるのを感じた。無理だ。とても諦められない。
(……どうする!)
エーミールは逡巡する。
そのとき突然、ずっと黙っていたヤンが、エーミールの手を強く握り返してきた。
ヤンはそのとき完全に理解していた。
神父が彼の、そして恐らくエーミールの敵でもあることを。そして、ルドルフもまた神父側の人間であることを。
そして、そうであるならば説得など効果をもつはずがないのに、エーミールが一体今、どうやって彼を庇おうとしているのかを。エーミールが窓から見ていたメイドの少女を手招いた瞬間に、何をすればいいのかが全てわかった。
──つまり、彼女という第三者に、自分の言葉を聞きとってくれるだろう証人に聞かせるように話せばいいのだ。幸い二人の大声のせいで、屋敷からは何人か人が出てきている。
エーミールの手を一度強く握る。彼が追い詰められた顔で振り返ってくるところににっこりと微笑みかけてやってから、手を離した。
神父に向かって言う。
「……いいよ、神父さん。確かにこんな血まみれで何言ったって信じてもらえないよな。拘束したいならしてくれ、抵抗しない」
「……ヤン!」
エーミールが悲鳴のような声をあげる。
先程必死で逃がしてくれようとした理由がわかった今、エーミールが今ためらった理由もわかる。自分が今、蛇の姿をとって逃げれば、恐らく自分を庇ったエーミールが問い詰められることになるのだ。……もちろんそれは、自分の望む展開ではない。
「でも本当に俺はやってないんだ。ちゃんと調べてくれたらわかるはずだ。逃げも隠れもしないから好きなだけ調べてくれ」
「……殊勝なことだ、人狼め」
ジルヴェスターが足先でルドルフを小突く。ルドルフは呻きながら起き上がった。
「ルドルフ、ヤンを拘束しろ」
「やめて!」
エーミールが悲鳴をあげてヤンの手を横から掴む。
「エーミール、大丈夫だ。だって全部神様が見ていてくださるんだから、ちゃんと調べてくれたら絶対に本当のことがわかるんだ。……お前には時間がないのにこんなことになって、ごめんな」
……何となくでも伝わったのだろうか、彼のその手から力が抜けた。ルドルフがまだ少ししんどそうにしながら、神父の差し出した縄でヤンの両手を後ろ手に縛った。
「……古井戸にでも放り込んでおけ」
「あいよ」
肩からかけていた帆布の鞄を奪われ、縄を引かれて歩き出す。なぜだろうか、ひどく穏やかな気分だった。
屋敷の裏手あたり、救貧院に近い古井戸の前まで来ると、ルドルフがヤンの背中を軽く押し、自分で入れ、と声をかけてくる。
「深いから気をつけろ」
「心配してくれるのか?」
少し笑う。ルドルフは頭を掻いて苦笑した。
「……案外頭が回るじゃねえか、クソガキ。ああいうことになったらな、ちゃんと調べる前に死んでちゃこっちが困るんだよ」
「なるほど」
頷いて、何とか脚だけで井戸の縁に座り、するりと飛び降りる。井戸の底には膝を抱えて座るのにぎりぎりの広さしかなく、水こそ溜まっていないがたいそう湿っていた。もぞもぞと座ると、今まで自分を引っ張っていた縄がするりと落ちてくる。井戸の縁に立て掛けられていた重そうな石の蓋が、音を立ててずらされてくるのを見上げた。
「……蓋閉めるぞ。たまに空気は入れてやる」
「わかった。……よろしくな、ちゃんと調べてくれよ」
呑気に笑っているうちに、視界が真っ暗闇になった。
……エーミールは確かに、ヤンからの隠れたメッセージを受け取っていた。上手くはなかったがヤンは、本来なら彼が決して言わないことを言ったのだ。『全部神様が見ていてくださるんだから』。彼の故郷にそうした神への信仰はないと言っていたし、自分が神など信じていないことも、ヤンは絶対に知っていたのに。
……つまり、ひどく曖昧なやり方だったが恐らく、自分は考えもなしに拘束されるのではない、これはわざとだ、と伝えようとしていたのだと思う。神父への牽制も兼ねて、あえてそういう言い回しにしたのだろう。
屋敷の人々が少し遠巻きにざわざわと、何事だろうと話し合っているのが聞こえる。彼らが事件について知り、ヤンが人狼であるという説に疑問を持てば、少なくとも彼らが納得するまではヤンは処刑されない。あの立ち回りはヤンが最も無害そうに見える、うまい時間稼ぎだった。それにわざと拘束されたなら、後で姿を見られないように逃げてくれるつもりかもしれない。ヤンの打った手は確かに、この場で打てる最善の手だったと思う。
──が、エーミールはその場に座り込んで、嫌だ、嫌だ、と身も世もなく泣いていた。ヤンが殺されてしまう、ヤンが人狼なんかのわけがないのにと泣いていた。
……もちろん演技で。人に弱々しい印象を与えるように。
「……エーミール、聞き分けなさい」
「嫌です、嫌だ! ちゃんと調べてくれないなら、僕は寄宿学校なんて行きません!」
周囲に対立の印象をつけて。ジルヴェスターの意見が一方的に通らないようにして。とにかく事件について調べるか、ヤンが逃げるかの時間を稼がなくてはならない。この際ジルヴェスターからの印象が多少悪くなっても仕方がない、こうなったら一人でも多く巻き込んでやる。
……だがそのとき。
もはやエーミールの説得を諦め、ヤンの鞄を開けて中のものをあらためていたジルヴェスターが、突如動きを不自然に止めた。
「……!?」
両手に包み込めば何を持っているのかわからない、その程度の大きさの何か。だがそれを見たジルヴェスターの表情が、今度こそ、困惑どころではない破滅的な恐慌の色に染まっていく。彼の口元が何かを呟いたが、震えすぎていて内容は読み取れなかった。鞄が手から足元に滑り落ちるや否や、彼はそれに弾かれたように、急にどこかへと走り出した。
(……動い、た……!?)
それを見てエーミールも思わず嘘泣きを忘れた。ジルヴェスターが落とした鞄をとっさに拾い、傍らにいたユーディットに投げつける。
「ひゃっ!?」
「……ユーディット、それ! 預かっておいて!」
叫んで身を翻した。ジルヴェスターを見失うわけにはいかない。何も事情を知らないはずのヤンがどういうわけか作ってくれた千載一遇の好機だ。何より今ここでジルヴェスターの秘密に手が届けば、何の未練もなくヤンを助けることができる。
そして彼を追った先、狼狽のあまり幾度も失敗しながらジルヴェスターが秘密の隠し場所を開けるのを見て──
エーミールはついに、彼が求めてやまなかったものを手に入れた。