avenge
11-1.
まるで魔法のようだったんだ。
◆
(ああ……お父さんお母さんごめんなさい、私は人殺しの片棒を担いでしまうことになるかもしれません……)
未だかつてどんな盗みを働いたときもこんなことはなかった、というほど手が冷たい。ユーディットは両手を固く組み小さくなって、リネン室に隠れていた。
彼女は刻限を待っている。リネン室は、エーミールの部屋とジルヴェスターの執務室の間にあった。ここから執務室まではほとんど離れていないので、ことが起きればすぐにわかるはずだ。
耳を澄ましているとやがて、がたん、と何かが落ちたような音がした。
(……!)
ユーディットはぱっと立ち上がりリネン室を出て、大きな声で叫ぶ。
「旦那様、何か物音がしましたがどうなさいました……!?」
閉ざされた執務室のドアの向こうから、苦しげな低い呻き声が聞こえてきた。
──ユーディットがエーミールからその『お願い』を聞いたのは、今日の午後のことだった。
夕方というにはまだ早い午後三時半頃、ユーディットは盆にカモミールティーのポットを載せてエーミールの部屋のドアを叩いた。紙片を渡されたあの日、俯いた彼の表情を見てしまってから、彼女は何だか放っておけなくなって、毎日彼の部屋を訪れることにしていた。
……弱みを握られて無理矢理頼み事を聞かされているのにそれはどうなのか、とは自分でも思ったのだが。
あのとき彼が見せた表情は何だかひどく悲しそうで、とても冗談や悪ふざけで自分に無理を言っているようには思えなかったのだ。彼はひとり、深い悲しみと苦痛に耐えているかのようだった。
実際その予感は当たっていた、と、今日も彼の部屋に入ったときにユーディットは思った。ノックに返事もせず、エーミールは窓際の机に頭を伏せていた。ちっとも手を着けられた様子のない課題の紙束の傍らで、彼は小刻みに肩を震わせていた。
彼女に紙片を渡して以降の彼は、見るたびに憔悴していくように思えた。何の変哲もない日を過ごしてさえも、彼はじりじりと弱っていった。日に日に口数が少なくなり、表情が鈍くなり、昨日は渡したカモミールティーが冷めるまでずっと膝の上に載せたまま動こうともしなかった。
そして今日、昼頃に、なんと彼の親友が人狼として名指された。彼の必死の抵抗にもかかわらずジルヴェスター神父は捕縛を強行した。そのあとしばらく彼は小さな子供のように泣いていて、やがて彼女に急に荷物を押しつけるとどこかに走り去ってしまっていた。……それから時間も経ったので、まず部屋には戻っているだろうと思ったが、今はもしかしたら一人にしておいてやった方がよかったのかもしれない。そのときやっとそう思ったが、既に部屋に入ってしまったものはどうしようもなかった。
「……エーミールさん、お茶持ってきましたよー」
ベッドサイドのテーブルに置いて、遠慮気味に声をかける。エーミールがぴくりと反応して、ゆっくりと身体を起こし、彼女に向き直った。
ユーディットは目を疑う。
──エーミールは笑っていた。彼女が今まで見たこともないような楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「ああ、ユーディット。ありがとう。外には誰もいませんね?」
「え、えぁ」
慌ててドアに駆け寄り、外の様子を確かめて鍵もかける。
「……いませんでした、大丈夫です」
……何だかすっかりこの挙動が板についてしまったが、今まさに、わざわざ自分から窮地に飛び込んだという気がした。一体自分は何をしているのだ、と思う。
「よかった、いいところに来てくれました。喉が渇いたなと思っていたんです」
「そ、そうですかー……」
まったく普通に立ち上がってベッドの方に歩いてくるエーミールの表情を上目遣いに伺いながら、ユーディットはカモミールティーをカップに注ぐ。エーミールはカップを受け取ると、香りの強い湯気を吸い込んでくすくすと笑った。……大丈夫だろうか。もしかしてショックなことが多すぎて頭のネジがどこか外れてしまったのでは。
「……や、ヤンさんのことはお気の毒でした」
「え?」
カモミールティーを啜りながらエーミールがきょとんとした表情を浮かべた。だがすぐに思い当たったようで、納得したように笑う。
「……ああ。大丈夫ですよ、後で助けに行きます。あの状況からなら、いくらお父様とは言え、すぐにはヤンに何もできませんから」
「……え?」
「まさか彼が、打ち合わせもなしにあんなに上手く立ち回ってくれるとは思わなかった。おかげで僕もとうとう欲しいものを手に入れました」
エーミールは笑顔のままカップを空にし、お代わりまで要求してくる。ユーディットは困惑しながら、ポットの中の残りを全部注いだ。
「……ど、どういうことですか?」
「おや、聞きたいですか?」
「ふぐっ」
何かまたまずいところに踏み込んだような気がして、ユーディットは息を詰まらせる。エーミールは楽しそうに笑った。
「今となってはもう洗いざらい教えてもいいのですが、話すとしたら少し長い話になりますからね。先に『質問』と『お願い』を済ませておきましょう」
「……やっぱりまたそれやるんですかー!?」
ユーディットの小さな悲鳴に、彼の笑みが少し深くなる。
「あはは、何を今更。……あなただって、そのつもりだったから何も言わなくても鍵をかけてきたのでしょうに」
「っ……」
そう言われると、確かに予想していなかったわけでもないので困ってしまう。エーミールはカップを置くと、膝の上に手を組んだ。
「さて。……では、『質問』です。ここで働くのは好きですか? この場所そのものにこだわりがありますか、ということですが」
「? ……いえ、特には」
やや予想外の問いだった。ユーディットは少し考え、首を振る。
「そうですか、それはよかった。ここは今夜から少し大変なことになりますから、君も大事なものをまとめて早めに逃げることをお勧めします」
エーミールは笑顔で言う。
「な、何が起きるんですかー……」
「僕がヤンを助けに行くんですよ。今夜のうちに片をつけます」
具体的なことはなにも答えずに、彼はくすくすと笑う。それから彼は少し姿勢を正して、それでは『お願い』の方ですが、と続けた。
「……先に言っておきます、この『お願い』を君は断っても構わない。十分以上に危険なことです。一番素直なやり方が君に頼むことであるだけで、君が嫌だと思うようなら違う手を考えます。決して遠慮はしないでください」
笑みを消し、真剣な眼差しでユーディットを見つめる。これまで見せたことのない顔に、ユーディットは思わず息を呑んだ。
「……さっき預かってもらった鞄の中身、君のことだからもう確認していると思いますが、あの中に薬の包みがあったはずです。わかりますか?」
「……はい」
思い返してみる。
鞄の中身は何かの薬と、合計すれば結構な額になるだろう硬貨の入った袋と、少し広い範囲の地図と、よく知らない単語と人相書きのメモが一枚ずつ。
「あれの中身は乾燥させて砕いた薬草で、僕の母がこの数年内服していた薬です。本来は葉のまま煎じることが多いようですが、僕が買っていたものは粗い粉末状になっていました。母の薬は僕が煎じて煮詰めたものでしたが、同じ薬をこれと同じように、ハーブティとして抽出することもできます」
エーミールはカモミールティのポットを指差して、言う。
「お願いというのは、君がその薬草を使って淹れたお茶を、ジルヴェスター神父に飲ませて欲しい、ということです」
「……!?」
ユーディットは目を見開いた。
「く、薬なんですよね? 旦那様にそんなご病気ないですよ?」
「そうですね、彼にはただ極端に視力が悪い以上の持病はないはずです。……つまり、薬として飲ませるわけではない。その薬草は特定の症状の人に適量を飲ませれば薬になりますが、そうでない人には毒になります」
「毒って!」
ユーディットは思い切り首を振った。
「お、お断りします! いくら何でも人殺しの手伝いなんかできません!」
エーミールはふう、と息を吐いた。表情を緩める。
「……そうですね、まあそういう反応になりますよね。では仕方ない、次の手を考えます」
「っ」
そんなことを言ってまた脅してくるに違いない、とユーディットは腹に力を入れる。だがエーミールは組んでいた手をほどいたものの、ベッドに片手を着き、逆の手で前髪を軽く掻き上げただけだった。
「……ただ、言い訳をしておくと、僕には彼を殺す気はありません。今夜一晩だけ、彼が自由に動けなくなってくれればそれで十分。もっとも分量によってはしばらく寝込むことにはなるでしょうけど……彼にそんな楽な死に方をさせるつもりはありませんよ。それでは僕の気が晴れない」
「……え」
身構えていた身体がバランスを崩して、ユーディットは思わず少し前のめりになる。……それは、どういう。
だがエーミールは既に彼女に対する執着をなくしたかのように、よそ見をしながらぱたぱたと手を振った。
「ああ、ユーディット、もう行ってもらって結構です。今までありがとう、君がいてくれると思うと頼もしかったです。鞄の中のお金は元々僕のものなので、これまでのお礼として差し上げます。……あ、でも鞄自体はヤンに似合ってたしちょっと惜しいな。もし大丈夫なら、鞄だけは戻してもらえると嬉しいですね」
「……ええ?」
ユーディットは困惑する。他ならぬ彼が、自分にこんな話を聞かせておいて、そんなに簡単に解放してくれるとは思えない。
「……何かエーミールさん、おかしくないですか? えっと、盗みのことは?」
問われると、エーミールはもう一度彼女に目を向けた。急にその顔が年相応の普通の少年のように見えて、彼女は目を瞬く。
そして彼は、柔らかく笑った。
「そうか、そう思いますよね。おかしくはないです。僕は元々、やむなく自分の身代わりにするのでない限りは、君のことをジルヴェスター神父に話すつもりなどなかったんですから」
「……ええええ?」
そこで急に、彼の声の調子が冷笑的に変化した。
「だって、自分以外にも彼に損害を与えてくれる人がいるなんて最高じゃないですか。それがどんな形でも大歓迎でしたよ」
……それはまたしても、巧妙な罠なのかもしれなかった。
だがユーディットは、印象が一時たりとも安定しないそのエーミールの顔を見ていたら、どうしても聞いてみたくなってしまった。
「……えっと、そうだとすると……エーミールさんにとって……旦那様、ジルヴェスター神父様は一体何だったんですか?」
エーミールはゆっくり二つ瞬きをして、今度は少し冷たい印象の笑みを浮かべた。
「──彼は僕の実の父を殺し、母の死の引き金を引き、また今回は親友をも手にかけようとした、まごうことなき大悪人です」
「……!」
ユーディットは息を呑む。
……彼と養父であるジルヴェスターとの間には何かあるとは思っていたが、せいぜいちょっとした確執がある、程度のことかと思っていた。まさかそこまでの関係だったとは。
エーミールは何もない空中を見上げ、続けた。
「元々、僕は彼に復讐するためにここに来ました。理由はわかりませんが彼は早くから僕を気に入ってくれていたので、入り込むことは難しくなかった。ヤンという不確定要素を連れてきてしまったので結果的にはこういうことになりましたが、いつかはそうするつもりでいたんです」
でもね、と彼は少し困ったような笑みを浮かべる。
「ずっと決め手がなかった。元気になったら動き出そうと思っていたのに、身体が回復した途端に寄宿学校に行けと言われて。ここ三日は本当に追い詰められていました。……そうだ、君はずっと気遣ってくれていましたよね。ありがとう」
「……お礼を言われるほどのことはしてないです」
ユーディットは首を振るが、エーミールは微笑で返してきた。
「いいえ、本当にありがたかったですよ。……そんな事情で今朝までは、もう駄目かと思っていたんです。でもどういうわけか今日になって、突然魔法のように全てが片付いた。欲しかったものも手に入りました。……そういうわけで僕にももうここにいる理由はなくなったので、迎えが来てしまう前に片をつけることにしたんです」
両手をベッドに着いて背筋を伸ばし、エーミールは目を閉じた。歌うように言う。
「今夜、僕は彼に復讐する。そうしたらこの屋敷も大きな混乱に呑み込まれることになるでしょう。……だからその前に、君は逃げてください。もし欲しいものがあったら、君のやり方で持っていくといいと思いますよ」
「……」
物腰はむしろ柔らかなのに、その決意は固そうだった。やると言ったら必ずやる、と、彼の全てが語っていた。
ユーディットは何を言えばいいのかとしばらく悩んで、なんとか答えを探しだす。自分の直感に従おう、と決めた。それは数々の盗みの現場で、何度も間一髪で彼女を救ってきた、信頼の置ける感覚だった。
「……それは、本当にお疲れさまでした。──エーミールさん、さっきの話、薬のお茶の話ですけど。私に、やらせてください」
確かにそう決めたのに、口に出してみるとあまりにも突拍子もない。自分でもうっかり笑いそうになるくらいだった。
「……え? いえ、無理はしなくていいんですよ? それはまあ、今は立場がまずいので自分でやるというわけには行きませんが、足止めだけなら他に全く手がないわけではないですし」
エーミールも心底困惑した顔で、彼女を押し留めるように手のひらをこちらに向ける。
「いえ、やらせてください。……私は頭が悪いので、エーミールさんみたいにうまく説明できないんですけど。信用できないかもしれないですけど」
ユーディットは背筋を伸ばし、まっすぐにエーミールの目を見た。
「あなたが一人で苦しんでるのを見てきて、ここまでお話を聞かせてもらって、それなのに自分は『はいそうですか』って一人で逃げたら、これから何を手に入れても幸せになれないような気がしました。……それは嫌です。そんな後悔、したくないです。……だから、私にやらせてください」
……それを聞くとエーミールは、一瞬、虚をつかれたような顔をした。やがてその肩が小刻みに震えはじめる。やがてそれだけでは抑えきれなくなったらしく、彼はくつくつと声を漏らして笑いだした。ひとしきり笑ったあと、はー、と大きな息をつく。
「……君もまあ大概変な人ですね、まっすぐなんだかひん曲がってるんだかわかりません。……わかりました、そこまで言ってくれるならお任せします。それなら少し注意点があるので、聞いてください」
エーミールは指を立てた。
「まずひとつ。あの薬草を抽出すると甘い味のお茶になるはずなので、その点を気をつけてほしいです。……が、そもそも彼は相当な甘党で、常に砂糖を多目に要求しますよね。だから入れる砂糖の量をうまくごまかせば、多少の味のおかしさには気づかないでしょう。今日のあの動揺具合なら特に。……君の手先の器用さなら、十分可能だと思います」
あらかじめ味見をする場合、少量なら構いませんが決してたくさんは飲まないように、君が大変なことになりますから、と彼は付け加える。
「もうひとつ。あの薬草は、体に合わないほどの分量を摂取すると最終的には吐いてしまうそうです。だから毒性の割に死者はそう多くないとか。……ただ、体質や体調によっては死んでしまわないとも言い切れない。君を絶対に人殺しにしない、とは約束できません。僕もそれは望まないのですが」
「はい。……それは私も嬉しくはないですが、覚悟の上です」
「……」
エーミールはそこで、少し宙に目をさまよわせてから、もう一度彼女の顔を見た。
「……ええと、ありがたいんですけど本当に大丈夫ですか?」
ユーディットは力強く頷く。
「大丈夫です、絶対失敗しません。任せてください。……じゃ、私は準備しに行きます。旦那様の気持ちが落ち着く前の、早い方がいいですよね?」
一歩進み、ティーセットの盆を手に取った。まさしくこれが、今から彼女の武器となる。
「……ええ。ただ、僕は異常を確認してから動くので、それほど急ぎではありません。くれぐれも無理をしないで」
「はい。あ、鞄はあとでこの近くに置いておきますね。あとお金は大丈夫です、自分で欲しいだけもらっていきますから」
きっぱりと宣言すると、エーミールがぽかんと口を開けた。やがて吹き出す。
「……っふふふ。……なんてたくましい。君ならどこででもやっていけますよ」
彼女も笑って、ドアの前に立つ。
「……それではエーミールさん、ご縁がありましたらまたどこかでお会いしましょう。お元気で」
「……はい。君も元気で。最後まで本当に助けてもらいました。どうか、あまり無茶な盗みはしないようにね」
「はい」
彼女はそうしてその部屋を後にして──
──そして、今に至る。
わざと大きな声をあげたのは自分の判断だ。エーミールに事態の開始を伝えるのも目的の一つだが、まずは人を集めようとは思っていた。自分のやることも人が多い方がやりやすい。たとえ相手が倒れていても、一対一では丸見えなのだ。
(……よーし、せっかくですし翡翠の薔薇と、紅縞瑪瑙のマリア様も狙っちゃいますかー! ちょっと欲しいなって思ってましたし!)
執務室の飾り棚にあるはずの置物を思い浮かべ、全力で気持ちを奮い立たせた。十分に気合いを入れておかなければ、こんな状況、とても乗り切れない。
彼女の声を聞いたらしい幾人かの足音が遠くから聞こえてくる。ユーディットは執務室のドアを叩き、また声を上げて、頃合いを見計らってドアに取りつく。
ドアの引き手に手をかけて開こうとするその瞬間、どうかエーミールさんの方も上手くいきますように、と彼女は祈った。