avenge
11-2.
……その、数分前。
ジルヴェスターは執務室で数枚の書類を広げ、苛々と指先で机を叩いていた。
あの後、ルドルフを追って、事件現場を目撃した町の人々の何人かが屋敷まで来た。ジルヴェスターはこちらで人狼とおぼしき少年を捕縛したことを告げたのだが、エーミールに絆された屋敷の使用人たちが口々に、彼はとても怪しかったものの何しろエーミールの親友で、本人は無実を主張しているようだから調べて欲しい、と言ったのだ。
(……ああ、どいつもこいつも、どうして肝心なときばかりわたしの言うことを聞かないんだ……!)
そのせいで実際に数人がかりで事件現場を調べる羽目になった、その調査結果がこの目の前の薄い書類というわけだ。弔いのこともあるのでジルヴェスターも同行した。
なかなか凄惨な現場だった。ラルフの遺体は確かに、思いもよらないほど損壊していた。別に疑っていたわけではないが、やはりそれをしたのはルドルフではないという。
(……人狼、か……)
彼にとっては長らく文献上の存在でしかなかったものが、よりにもよって今、現実の脅威として立ち現れてきたらしかった。
……もっとも、それ自体はむしろ都合がいい。人狼の存在に説得力が出れば、ヤンを排除するには役に立つ。ただ第一印象で周囲をうまく説得しきれなかった今、彼をすんなりと処刑台に上げることができるのか、というと。
(どうにも……根拠が足りない……)
当たり前だが、彼がやったという証拠を示すことなどできない。彼がやっていないという証拠も、少なくともまだ何も露見してはいないが。
……こんなことなら、ルドルフに直接ヤンを殺させておくべきだった。納得も諦めもないままに親友の突然で理不尽な死に直面すれば、恐らくエーミールは深く傷ついたことだろうが、それでもその傷も、ここを離れている間には徐々に癒えていったに違いないのに。
──いや、何だったら今からでもそうしてしまおうか。こちらの立場は悪くなるが、それこそ人狼のせいにしてしまえばいいのだ。『本物』への対処はそれからで十分だろう。
ジルヴェスターは立ち上がろうとし、そこでふと、眉を寄せる。
頭が痛い。比喩ではなく、本当に痛かった。軽く頭を振ってみながら、ジルヴェスターは唾を飲み込む。何だか胸までむかつく。心労だろうか。
思ったそのとき、突然視界が霞んだ。
「……っ?」
右手で顔に触れる。眼鏡……眼鏡はかけている。だが目の前がよく見えない。そんなはずはないのに、なんだかひどく明るくて眩しいように感じる。急に心臓が跳ねた。
……唐突な吐き気。堪えきれず、先程ハーブティーと共に腹に入れた焼き菓子を、ほとんど戻してしまう。
「……っ、かはっ、か……っ」
──なんだこれは。
胸を押さえて机にへばりついた。今戻した吐瀉物の匂いで余計に気分が悪くなる。また吐いた。
「……う、ぐっ……!」
思考がまとまらなかった。ひどい気分でまともに座っていることもできない。助けを呼ばなければ、とかろうじて思い、執務机の上にあったガラスの文鎮をなんとか押して床に落とす。割れなかった。重い音。誰か気づくだろうか。苦しい。
……しかし運のいいことに、すぐに廊下から声がした。
「旦那様、何か物音がしましたがどうなさいました……!?」
少し安堵した途端、また吐き気が襲ってくる。まともに言葉を発することもできずに呻き、ジルヴェスターは椅子から崩れ落ちた。
ユーディットが上げたその声を、エーミールは目を閉じて聞いていた。
(……ユーディット、君は本当によくやってくれた)
明かりを灯さず、満月までもう少しの強めの月光が入るばかりの自室で身支度をしながら、エーミールはそう思う。
彼女がいてくれて本当に心強かった。この苦しかった三日間を本当によく支えてくれた。
だが、これも天の助け、などとは思いたくない。彼女がこの屋敷にいたことについては運がよかったとしか言いようがないが、彼女が隙を見せたのは自分が寝込んでいてまったく警戒されていなかったからだし、そこで彼女の手をとれたのは十分な注意によって自分がその隙を見つけられたからだ。神様がどうにかしてくれたことなんて一つもない。
けれども。
(……神様なんて信じない。……だけど、どうか君が無事に逃げられますように)
誰に向けたかわからない祈りをほんの一瞬捧げ、エーミールは「よし」と一言呟いて、回収してあったヤンの鞄を肩からかけると部屋を出た。
ジルヴェスターの執務室に使用人たちが集まっているのを確認して、影のようにその後ろを通り抜ける。どうせ自分で判断して動ける者などここにはいない。多少見られたところで支障はない。案の定特に見とがめられることもなく、予定通りに屋敷の玄関を出た。
(──だから問題は、あと一つだけ。……ヤン、待ってて。必ず突破してみせるから)
恐らく最後の関門となるだろう赤毛の男の、傷のある顔を思い浮かべる。ジルヴェスターの命令だったはずだとは言え、ヤンにひどいことをして陥れようとしたあの男。
(でも殺したりなんかしない。……二度と立ち上がれないように心を押し潰して、粉々に打ち砕いてやる)
夜の外気を吸い込んで、ただ一度だけ、胸の内の黒い炎に完全に身を任せる。
さあ、ついに手が届くところまで来た。
口元に浮かぶ笑みを抑えることなく、エーミールは古井戸に向かって歩き出した。