avenge
11-3.
どこかあまり遠くないところで梟が鳴いていた。ほう、ほう、と独特の低い声が、夜の空気にこだまする。
古井戸の側に持ち出した古い毛布に身を包み、地面を整えて石を並べた中央に熾した小さな焚き火に当たりながら、ルドルフは屋敷の方に注意を向けた。先程から何やら騒がしい。複数の人間がざわざわと動いている気配がする。
(……始まったか)
何となくだが今夜は、何も起こらないはずがないと思っていた。
ジルヴェスターの思惑があれほどに外れるなどそうそうあることではない。今回はどうも何かがおかしいような気がする。それはこの古井戸の中で音も立てずにいる少年のせいかもしれないし、彼を必死に庇おうとしたエーミールのせいかもしれないし、自分の知らないうちに事件現場を荒らした誰かのせいかもしれない。とにかく何かが噛み合っていない、そう感じていた。
(……ジルの旦那はどう思ってんだろうな……)
厳しく叱責されることを覚悟していたが、今日のジルヴェスターは予想外の事態に忙殺されてそれどころではなさそうだった。人狼が出た、などとは自分で言っても信じがたいと思ったが、彼は果たしてどう受け取ったのだろう。というかあれは本当の本当に人狼だったのか。あんなことをするものが、他にそういるはずもない気もするが。
……とりとめなく考えているうちに、ふと耳が、下草を踏む音を捉えた。屋敷の方からこちらに歩いてくるようだ。ルドルフは毛布を肩から落とし、すぐに立ち上がれるよう準備を整えた。
だが闇の中から現れた『それ』を見て、ルドルフは目を見開いて硬直する。
「……ごきげんよう、ルドルフ。あなたがいるのだろうと思っていました」
半ば吐息に近い低い声。やや間延びすらして聞こえる遅めの口調。
現れたエーミールは真っ黒なコートを身に纏っていて、ただ白い顔だけが浮かび上がるように見えた。その声に、その表情に戦慄する。
「……何……だ、お前、その、顔……」
「僕の顔になにかついていますか?」
首をかしげるその動き自体は年相応の仕草のはずなのに、発する存在感が尋常ではない。彼は焚き火に近づいてきたのに、彼のいるところが周囲の夜よりもまだ暗いように感じる。
「ヤンを返してもらいにきました」
エーミールはかすかに、微笑みに似た表情を見せた。……ほんの皮一枚のそれを、微笑みとは呼びたくなかった。
彼は何も武器など持っていない。ただの素手。ヤンは一応格闘の心得がありそうだったが、エーミールにそんなものがあるとは聞いたことも思ったこともない。
それなのに。
ただ彼を見て、わずかな言葉を聞いただけなのに。
「……待て、やめだ、降参だ、勘弁してくれ」
急速に胸の奥が冷え切るのを感じて、ルドルフは目を見開いたまま、空の両手を挙げた。
「頼む、頼むからもう喋るな。お前に引きずり込まれたら、二度とこっちに戻れなくなりそうだ……!」
何でもない言葉を聞いているだけで耳から何かが入り込んできて、思考が黒く侵されるような気がする。ジルヴェスターのそれを遥かに超えて、エーミールの発する声と気配は危険を孕んでいた。
……元々ルドルフは、ジルヴェスターがそうであるほど彼のことを買っていた訳ではない。頭こそいいが気の弱そうな、頼りない少年だと思ってきた。ジルヴェスターがなぜそこまで彼に入れ込むのかわからない、と思っていた。
だが、今目の前にいる彼は。
(……何て化け物になりやがった……!)
ジルヴェスターがこの才覚を彼の中に見出だしていたのだとしたら納得が行く。……いや、そうだとしたら恐らく逆だ。エーミールの方がジルヴェスターを魅入ったのだ。
「……ふうん?」
喋るなと頼んでいるのにエーミールは首をかしげて、また一歩踏み込んでくる。
「引きずり込む、だなんておかしなことを。あなたなんて要りませんよ、『お父様』も要らない。僕が欲しいのはもうヤンだけです、他はみんなみんなあなたたちに奪われてしまったのだから」
「……っ……!」
エーミールは声を荒らげるでもなく、ルドルフを脅すような表情もしていない。ただ静かな声で淡々と語るだけなのに、口元には相変わらず微笑らしきものすら浮かんでいるのに、そのあくまでも凪いだ眼差しと声の裏に圧縮されたとてつもない激情が、影のように滲み出して絡みついてきた。……一体どんな煮詰めかたをしたら、たかだか十五の子供の感情がここまでの密度を得るというのだ。
分が悪い──そう思いながらも、なんとか足掻いてみる。
「み、みんなって誰だ、俺がやったのはこいつを捕まえてきたことぐらいだぜ……!」
「……」
エーミールは少しだけ、考えるように動きを止めた。
「……そうですね、あなたはそうかもしれない。あなた自身は、きっと僕に何かしようなどとは思っていなかったことでしょう」
その隙にほんの少し、息を吸うことができた。だがエーミールはすぐにもう一歩距離を詰めて、ルドルフの顔を高みから見下ろす。
「でも、『お父様』の指示でヤンを人狼に仕立て上げようとしたのは、あなたですよね」
「……!」
圧力が一層増した。とてもごまかせそうにない、強固な確信を伴った断罪の言葉。
そこの木に縄をかけて今すぐ首を括れ、とでもその声で言われたなら、ルドルフはすぐさまそうしただろう。だがそうではなかったので、まだかろうじてそこに留まることができていた。
「……頼むやめてくれ、あの後あいつには何もしてない。ジルの旦那には黙ってる、抵抗しない、だから助けてくれ」
もはやほとんど吐息のように掠れてしまった声を、必死で吐き出す。だがエーミールが一歩大きくこちらに踏み込んでくると、目線が勝手に下がった。エーミールの足元から視線を動かせなくなる。
「……命乞いだなんて。どの口が言うんでしょうね。ラルフさんもあなたが殺したはずだ。少し呆けかけただけの、ただの穏やかなお爺さんだったのに。小さい頃は何度か遊んでもらった。優しい人でした」
「……っ」
……なにも否定できない。何一つ。確かに罪もないラルフを手にかけたのは自分だったのだから。
自分でも命乞いなど滑稽だと思った。だが本当に死を、深淵を覗き込めば、助けを乞う以外のことは考えられなかったのだ。
エーミールが目の前まで来て、とうとう指先すら動かせなくなった。彼はくつくつ笑い、あたかもルドルフに差し伸べるかのように手を伸ばす。視界に入ってきたその手が一体自分に何をするのか、恐ろしくて目が離せない。
……だが彼の指がまさにルドルフに触れようとした、ちょうどそのとき。
「──!」
どこか遠くで、狼が一声、吠えた。それに驚いたか、複数の鳥の飛び立つ音が一斉に、遠くからこちらに近づいてくるように響き渡る。近くの枝にいた梟も飛び立ったのか、枝が揺れ、葉擦れの音が夜の空気をかき乱す。
目の前の指がひくりと震え、不意に彼の気配が色を変えた。息もできないほどの圧力が突然ほとんど消失し、急に肺に空気が入ってきて、ルドルフは咳き込んだ。
見上げたエーミールは数秒の間、そのまま立ち尽くしていた。やがてその目が、再びルドルフに向けられる。はっきりと、彼を捉えた。
けれども彼の口から出たのは、先程までのような押し殺された声ではなく。
「……。ああ……とはいえ、あなたなんて殺す価値もないんだ。僕はあなた方とは違います。僕はヤンの手をとるためにここに来たのだから、手を汚したくなどありません。彼の隣に立てなくなってしまう」
どこか夢見るような、穏やかな響き。
エーミールは伸ばした右手で、挙げたままだったルドルフの右手を取った。すっとその手を引き、まるで踊りに誘うかのような動きでそのまま彼を立たせながら、
「……さてと、それじゃ。……確か、『後ろから殴られて首を絞められた』でしたっけ?」
すれ違いざまに後頭部に軽く一撃を加えた。ルドルフの視界はぐらりと揺れる。背後からするりと伸びてきた細い指がすぐさま首に絡み付いて、的確に血管を圧迫した。
(っ……あいつに……やった通りに……?)
……確かに意識は、数秒と保たなかった。