avenge

11-4.


 ルドルフを地に這わせ、エーミールは天を仰いで大きく息を吐いた。
 やはりジルヴェスターと直接対峙しないで済んでよかった。ルドルフはあちら側だが、彼自身も言った通りそれほど直接的にエーミールを害してきたわけではない。そんな彼が相手だったからこそ、今かろうじて踏みとどまることができたのだ。もし相手がジルヴェスターだったら、ここが静かな部屋の中だったら、思い余って殺してしまっていたかもしれなかった。それでは自分が、幸せになれない。
 ……ジルヴェスターの動きを抑えられることが確定した段階で既に、きっとルドルフが最後の難関としてここにいるのだろうと思っていた。どんな展開になろうと後れを取るつもりもなかったが、後に多少の支障が出るかもしれないとは危惧していた。
 しかし無事に突破した。たどり着いた。
 胸の奥の黒い業火が、ただ一度だけ役に立ってくれた。
(──だけどもう、これはいらない)
 歯車をこれまでとは逆に回すように、ゆっくりと心の中の黒い炎を鎮めていく。
 目を瞑り、胸の内を清めるように、すう、と夜の空気を吸い込んで、吐いた。もうこれ以上何も憎まなくていい。きっと今夜、自分は自由になれる。ヤンの隣に立てるほどに。
(……ヤン。君さえいてくれれば、僕はきっと、いつだって僕でいられる)
 いつものように微笑む。
 エーミールは古井戸の傍らに屈み、腰を落として、重たい石蓋を少しずつずらし始めた。

 真っ暗な円筒状の空間で目を覚まし、ヤンは真上とおぼしき方を見上げた。蓋はまだしっかり閉ざされている。時間はわからない。だが意識は完全に覚醒していた。
 その、やっとはっきりした意識と感覚が、見えないままでも自分の体の状態を点検して伝えてくる。
 ……認識した。
 自分はまた、脱いだばかりの自分の皮の上に座っている。一度手足のない姿になったせいで、後ろ手の拘束も外れていた。
(……って、それかっ……!)
 今更納得して、軽く頭を抱える。なにか深刻な病気なのかな、と割と心配していたのに、単なる脱皮前の倦怠感だったとは。
 いや、思えば前兆現象はあった。蛇の形でいるときとヒトの形でいるときで共有している眼球部の鱗は、本体の脱皮より早く脱落する。あの事件現場で急に周囲がよく見えるようになったのが、どうやら今回の脱皮の予兆だったのだ。
 つまりここしばらくの不調は、長く蛇の体に戻ることなく活動を続けていたせいだろう。早く脱皮の準備をしろ、とずっと体が訴えてきていたのだ。
 そこにちょうど、この静かで狭くてほどよい湿度で、しかもほぼずっと一人でいられる場所を与えられたわけだから、まあこうなるのは必然だった、と言える。この季節だから屋外は寒いのだろうが、古井戸の深さが幸いしてか、気温までやや低めながらちょうどよく安定していた。
(あー……はっはっは……)
 うっかり最中に蓋を開けられたりなどしなくてよかった、というのが正直なところだ。色々な意味で対処のしようがないところだった。
 ……さて、これからどうしようか、と壁に寄りかかる。
 自力で逃げる努力をした方がいいのだろうかとも少しは考えたが、何となく必要ない気がした。既に縄から抜けているのだから、もし先に害意のある人間が来てしまっても、即座に抵抗することができる。
 ──そして何より、確信していた。きっと、必ず、もうすぐエーミールが来る。
 実際、ほどなくして地上から何か声が聞こえてきた。ルドルフとエーミール。古井戸の中は音の反響の具合が少し変で、内容はよくわからない。
 やがて会話が終わり、何かが重いものが倒れるような音がして、少しずつ蓋がずらされ、か細い月光が井戸の底に射し込み始めた。
「……お待たせ、ヤン。今もう少し広く開けるから、もうちょっとだけ待ってて」
 細く開いた隙間から、エーミールの穏やかな声がする。
「ああ。……エーミール、来てくれると思ってた」
「うん。やっと色々片付いたから」
 やがて石蓋が、どうにか半分ほどまで動かされる。エーミールは中を覗き込んで、
「……あっ嘘、また脱皮してる! ずるい! 見たかった! ヤン、それ、皮、持って上がってきて!」
「……お前、本当にそれ好きだな!」
 盛大に苦笑しながらヤンは蛇の姿に変じ、自分の皮を軽く牙に引っかけて井戸の上に浮かび上がった。すぐに地面に降り立つ。近くにルドルフが倒れているのが見えた。
「はい、これ──」
「……ああ、ヤン! 会いたかった!」
 抜け殻を差し出そうとしたのと入れ違いの動きで、エーミールがヤンの胸に飛び込んでくる。ヤンは体を受け止めると、ぽすぽす、と二度ほど叩いてやった。なんだか体格差が縮まっている気がする。自分が脱皮したせいだろうか。
「……ありがとな、迎えに来てくれて」
「ううん。ごめんね、大変なことに巻き込んで。……ジルヴェスターは足止めしてきた。ルドルフはこの通り、ここでのびてる。もう邪魔者はいない」
 完全に脱力した中年男の体を見下ろして、え、と思ってヤンは問う。
「……これ、お前がやったのか?」
「うん、一応、君がされたっていうのを参考にして。何だか油断してたみたいだったから簡単だったよ」
 ルドルフを少し眺めてから、変なときに目を覚ますといけないから古井戸に放り込んでいこうか、とエーミールは言った。
「……それに多分、目が覚めるまでここに置いといたら風邪を引いちゃうし。下の方が温かかったでしょう? ……あ、これ上着。コートの余分がなかったからカーディガンだけど、ごめん」
「や、うん、ありがとう」
 鞄の中から出した茶色のカーディガンを着せかけられ、ヤンは目を瞬いた。
 ルドルフが体に巻いていたらしい毛布をうまく使って、二人がかりで彼の体を古井戸に降ろす。意識がない体では受け身をとれないから足首くらいは挫いたかもしれないが、まあその程度は我慢してほしいところだ。
「……さて。じゃあ、ヤン。僕はまだ少しだけ寄らなきゃいけないところがあるんだ、付き合ってくれる?」
「もちろん」
 エーミールは嬉しそうに笑い、ヤンに手を差し伸べた。ヤンはその手をとる。エーミールは目を閉じて、心の底から幸福そうな顔をした。
「ああ、やっとここまで来れた。──ほんとうのことを話すよ。何もかもの真実を。今まで君に色々黙っていて、ごめんなさい」