avenge
12-1.
……その夏の日の夜明け、エーミールはひとり鉱山を調べに行った帰りだった。
早朝の時間は教会に拘束されている。日中は人目が怖い。自然、自分の行動ができる時間は数日に一度、人が寝静まる夜中から夜が明けるまでの間だけになった。それも夏場はとても短い時間で、調べたいことを十分に調べることもできない。既にぼんやりと周囲が明るくなりつつあって気が焦る。
(……それでも、今やっておかなくちゃ)
いつか来る復讐の日のために、準備をしておかなくては、と思う。一つでも多くあの男の弱みを握って、少しでも深く彼の秘密を知って、いつかあの男を地獄に引きずり落としてやる。
(そのときのために、何とか……)
夏とは言え夜明け時はそれなりに気温が低い。町へと急ぐ早い足取りのせいか、風にさらされた唇が震えた。
そのときのために。
いつか来る、そのときのために──
(……ああ、でも)
急に、寒い、と思った。自分の肩を両手で抱く。足が勝手にもつれて立ち止まる。
(……そんな日なんか……来ないでほしいのに……)
脆い決意が崩れかけていた。涙ぐみそうになって必死で堪える。抱いた肩の震えが止まらない。怖い。
母が死んでその日を迎えるのが怖い。あの男と対峙するのだって本当は怖い。本当は全部投げ出して逃げたい。助けてほしい。
……そのとき、東の空から光が差し始めたのが見えた。本当なら慌てなくてはいけないのに、なぜかそのときに限って視線を誘われて、エーミールは光が向かう方を見る。朝露の降りた森の梢がきらりと輝くのを知っていた。幼い頃、それが見たくてわざわざ早起きしたこともあったのを覚えていた。
だが予想したのとは違うものを、彼はそこに見た。
夜明けの陽光をきらきらと弾き返す、大きく美しく神秘的な輝きを。
──一瞬にして彼の心を深く捉えてしまったそれは、翼ある銀色の蛇だったように見えた。
◆
「教会にちょっと用事があるんだ、行こう」
エーミールは木立を抜けた先を指差した。
「……そして、用事が済むまでの間、僕の話を聞いてほしい。もうこれっきり僕も全部忘れようと思うから、君に話しておきたいんだ」
ヤンは少し伸びをしてから応える。
「それでお前の気が済むなら、いくらでも聞くよ」
「ありがとう」
エーミールは微笑み、珍しく少し気弱そうに笑った。
「……正直に全部本当のことを話すから、もし君が、僕のことが嫌だと思ったら、言ってくれていいからね」
ヤンは口を尖らせて、大袈裟なくらいに首を左右に振ってみせた。
「今更そんなことあるかよ。いいからさっさと話せ、聞いてほしいんだろ」
「……うん。ありがとう」
それでも安心しきれないような顔で、エーミールは暗い木立の中に歩き出しながら、改めて口を開く。
「ええと、先に……今まで色々黙っていてごめん。君は隠し事が苦手そうだから、そもそも知らない方が楽にいられるだろうと思って、なにも言わないことにした。聞きたいことがあったら後で答えるから、先に少し、僕の話をするね」
「おう」
ヤンは答えると、彼の後について足を進める。エーミールは話し始めた。
「……それじゃまず、僕がこの屋敷に、ジルヴェスターの膝元に来た理由を教えるよ。僕は、彼に復讐するためにここに来た。どうしても許せないことが、たくさんあったんだ」
「……!」
エーミールの口調は穏やかだったが重かった。ヤンは斜め後ろから彼の顔を見る。まっすぐに前だけを見つめていた。
「僕は彼にすごくたくさんのものを奪われた。平穏を、楽しむことを、安心を、自由を奪われた。どうしてそこまでされたのかはわからないけど、確かに何もかも全部、彼が僕から奪ったんだ」
口を挟める雰囲気でもなく、ヤンはただ彼についていく。
「最初は父さんのことだった。父さんは獣に襲われたのでも、崖から落ちたのでもない。殺されたんだ。……あの晩もう、僕はそれに気づいてた。君に話したとき言わなかったことが、いくつかある」
そこでエーミールは振り返って、ヤンに手を差し出した。少し不思議に思いながらヤンはその手を取る。
「……悪いけど君が苦手な話をちょっとするよ。なるべく怖くないように言うけど、こんな場所じゃ心細いだろうから」
「ぐえ」
変な声が出た。エーミールは苦笑して、また話し出す。
「……僕が見た父さんの遺体の傷は大きく分けて三カ所。頭の右横に尖ったものにぶつけた痕があって、首がちょっとよじれてて、頭の後ろに内出血。仰向けだったみたいだから下に溜まったんだろうと思う。あとはお腹に裂けた傷があって、内臓がいくつかなかった。……そして他は、ほぼ無傷」
「……」
足取りの遅くなるヤンに合わせて、エーミールもゆっくりと歩みを進めた。
「……物凄い違和感だったんだ。お腹の傷は確かに食い荒らされた痕に見えたけど、首に傷がないのは狼たちの殺し方とは思えなかった。何より手が無事でね、手のひらにさえ傷がなかった。……そのときどんなことが起きたんだとしても、普通危険から身を守ろうとしたらとっさに手を使うはずなのに、父さんは何も対処しなかった、できなかった、ってことだ」
彼が言葉を切ると、下草を踏み分ける音だけが聞こえる。木立の中、少し方向を変えて、彼は少し離れた教会の入り口を指し示した。
「これがどんなに異常なことかは、まあ生きてた父さんを直接知らない君にはわからないかもしれないけど。……少なくとも僕には、『獣に襲われて崖から落ちた』なんてあり得ないと思えた。崖の下で見つかった、遺体が食い荒らされていた、誰かがその二つをただ結びつけただけなんだ、とわかった。多分恐ろしい遺体を見ちゃって動転したんだと思う」
「……確かにそれは、冷静に見てるお前の方が変わってるよ……」
ヤンは呻く。手を繋いでおいてもらわなければ、とっくに置き去りになっていた気がした。エーミールは心外そうに、ヤンから見える側の眉を上げた。
「えー。まあそうかもしれないけど……だって、死んでるってことは先に聞いてたし。その頃は父さんに色々習ってたから、実際に狼に襲われた後の動物の死体とか、獲物を捌いてる途中とかよく見てたからね。見てると慣れるもんだよ」
「……俺は猟師にはなれそうにねえな……別になれなくてもいいけど」
「あはは」
エーミールは苦笑した。
「話を戻すね。……その晩父さんは、身を守る程度の道具すら持って出なかった。なら、狼がよく出るような場所を目指していたわけじゃない。そして猟をするくらいの辺りなら、父さんは隅々まで知り尽くしていて、夜に猟に出るときは灯りすらほとんど使わなかった。……僕もこの間行った辺りまでなら、まあ似たようなことができる。そんなの、父さんの半分以下の範囲だけどね」
エーミールは笑って、ヤンの顔を見た。
「まあはっきり言ってしまうと、見つかった現場は鉱山のすぐ近くなんだけど……だからこれは多分、実際にその辺を歩いたはずの君にもわかるでしょう。人が落ちて死ぬような崖、あの森にあったと思う?」
はっとした。
下生えの少ない管理された森。なだらかな地形。起伏の少ない足元。上から見ても大きな高低差などほとんどない、平らな大地。
「……! なかった!」
「そう。……実際、現場の『崖』も、見たらわかるけど、よほど変な向きで落ちなければ悪くたって足を挫く程度のところだよ。そもそも父さんが落ちるはずないけど。……つまり狼も崖も、父さんが死んだ原因じゃない。だったら何が起きたのか……という辺りまでは、その一瞬で考えた。ただ、母さんが倒れたからそっちに掛かりきりになっちゃって、そこから先に考えを進める余裕はなかったけど」
平然と言うエーミールの横顔を見て、ヤンは呻く。
「……あー、お前、本当に全然泣いたりしてなかったのな……」
「うん、残念ながら、よくも悪くもそれどころじゃなかったね」
彼はまた、あはは、と笑った。
「……それでも、ちゃんとそれなりにショックだったけど。でもあんなに納得できないものを見ちゃったら、余計に飲み込めなかったんだよ。悲しいより先に、一体何で、と思っちゃって」
「……それは……そうだろうな……」
想像しても追い付かないが、確かにそうなのかもしれないと思った。納得できない死を悲しむことは、人にはできないのかもしれない。
エーミールは続けた。
「ただ母さんのことで手一杯だったから、その先のことを知れたのは運がよかっただけなんだけどね。……買い物に出たときだったと思う。路地裏で大人が二人、言い争ってる声が聞こえたんだ。普段だったら通り過ぎたんだろうけど、何だか雰囲気が尋常じゃなくて、僕はとっさに近くに隠れて覗き見をした。一人はジルヴェスターで、もう一人はフランツっていう小父さんだった」
どうやら話としてはお金の無心だったみたいなんだけど、とエーミールは言う。
「……そうして聞いていたら、フランツさんが言ったんだ。『おい、もう少しいい思いをさせてくれてもいいんじゃねえか、ジル。おれはお前のためにアロイスを殺したんだぜ』って。……急に父さんの名前を聞いて、僕はびっくりして物音を立ててしまって。慌てて逃げたから、その後どうなったかはわからない」
それはさぞかし衝撃的だっただろう。……が、ヤンは少し違うところに引っ掛かってしまった。
「……父ちゃん、アロイスって言うのか。その名前、俺どっかで見たと思うんだけど」
「ああ、家には色々残ってるから見てるかもね。もしかすると君に渡したハンカチとかに刺繍してあったかも」
「……うーん?」
首をかしげてはみるが心当たりが出てこないので、一旦保留することにする。
「……それでね。その晩、僕はフランツさんのところを訪ねていったんだ。彼が父さんの昔の猟師仲間だったことを僕は知ってた。仲も悪くはなかったはずだった。だから、もしかしたら僕が行ってちゃんと聞いたら、本当は何があったのか教えてくれるんじゃないか、なんて考えてたと思う」
「……え、それは」
ヤンはぎょっとして、ついエーミールの手を握った。今引き留めても別に意味はないのだが、反射的にそうしてしまったのだ。
その感触が伝わったのだろう、エーミールは苦笑した。
「うん。今考えると、よくそんなことしたなと思うよ。下手したら僕も殺されるやつだよね」
そこで彼は、ふと真顔になる。
「……ただ行ってみたら、殺されてたのは向こうだった。右目に銃創があって、猟銃が彼の方に向いて落ちてた。……んだけど……実は右手の指先がなかったんだよね。悲鳴をあげたら人が来て、調べた結果『銃の手入れに失敗した』ってことになったらしいんだけど、引き金を引く指がないのに何をどうやって失敗したんだよ、というか、仮にも元猟師がそんな不用意に銃口を覗き込んだりするわけあるか、というか。……今思うとラルフさん、最近ちょっとぼけたなとは思ってたけど、当時から既にすごいぽんこつだったんだね……そういえば父さんの現場も彼が主導して調べたはずだ、他にそういうことする人がいなかったんだから……」
「……そこ、ラルフさんなのかよ……」
思わず顔を見合わせる。……自警団長ラルフの頭がエーミール並みだったらすべて解決していた、という気がしなくもなかった。
「まあ……うん……だからそれも、どう考えても事故でも自殺でもなかった。彼も殺されたんだ。……そこで思い出した。母さんの様子を見に来た誰かが言ってたんだ。『アロイスは鉱山の件でジルヴェスターと決裂したらしい、それで自分で直接現場に行こうとしたんだろう』って」
「……あ。……それって、つまり」
やっとどういう話をされているのかわかった気がして、ヤンは声を漏らす。エーミールは頷いた。
「そう。……父さんもフランツさんも、ジルヴェスターにとって邪魔な相手だった。その二人ともが殺された。……そして、そのことを知ってしまった僕が、彼にとって邪魔でないはずがない」
「あっ……!」
声を上げたヤンと目を合わせて、エーミールは微笑む。
「……そう。その日以来ずっと、僕はこの秘密を抱えてきた。母さんにこれ以上負担をかけたくなかったし、もしかしたら話が漏れるかも、と思えば町の誰にも相談できなかった。きつかったよ。息苦しかった。それだけで僕の平穏も安心も軒並み奪われたようなものだった……でも、この話はそれで終わらない」
「ま、まだあるのかよ」
「どっちかというとここからが本題、かな……」
話しながらたどり着いていた教会の扉を、エーミールは空いた片手で押し開ける。回廊に入ると、窓を透かした月明かりが色とりどりの光を投げ掛けていた。