avenge

12-2.


「……町の人たちも色々助けてくれたけど、母さんの薬代が嵩んだこともあって、あっという間に家の蓄えは底をついた。自分で何とかできると思ったのにね、あのときは情けなかった」
 エーミールは迷いのない足取りで進んだ。ところどころに小さな蝋燭を配された短い回廊はあっという間に終わり、彼はヤンの手を離して両手で突き当たりの扉を押す。
 目に入ったのは無人の広い空間。椅子の列、祭壇、説教壇、それから奥の壁際の宗教的なオブジェの類。
「……あまりにも困り果てて、ご飯が食べられなくなって何日目だったかな、僕は今みたいな夜中にここに来た。本当なら隣に建ってる救貧院に行くべきだったんだろうと思うけど、もう何もかも嫌になってしまって。どうせ死ぬなら少しでもジルヴェスターに迷惑をかけてやろうと思って、ここに来たんだ」
 エーミールは聖堂に足を踏み入れると軽やかに説教壇まで歩き、ゆったりと振り返った。ヤンはついていきそびれ、その半ばほどで足を止める。
「そう、ちょうどその辺りだったよ。……冬も後半だったけど、まだ寒い季節だった。僕はどうか母さんが早い内に誰かに助けてもらえるように、と祈りながら眠ってしまった。早朝になって僕は揺り起こされて……間近に、呆然としたジルヴェスター神父の顔を見た」
「……え?」
 変な顔をしたヤンを見て、エーミールはくすりと笑う。
「何事かと思うよね。僕もそう思った。でもそれどころか、彼は慌てて僕を抱き上げると温かい部屋に運んで、毛布を着せかけて、温かいスープを出してくれた」
「……は?」
「もちろん何が何だかわからなかったけど、すごくいい匂いがしてとても我慢できなくて、もう必死でスープを飲んだよ。美味しかった。なんだか奇跡みたいで、まるで現実とは思えなかった……ああ、君が最初にうちに来たときもそうだったのかな」
 エーミールは微笑む。ヤンはついていけずに何度も目を瞬いた。
「……ま、待てよ。何でそんな」
「何でだったんだろうね。僕にもさっぱりわからなかったし、今でもよくわからないよ。でも彼は僕に、そこに倒れてた事情を聞いて……父さんが死んで家にお金がもうなくて、病気の母さんを置いて来ちゃったって答えたら、全部どうにかしてあげるから大丈夫だ、って言ったんだ」
「……は」
 ヤンは深く深く首を傾げる。エーミールはその様子を見て声を上げて笑ったものの、やがてその笑みを消して、俯く。
「もちろんこんな小さな町のことだから、僕だって元々彼のことは知ってた。普通に教会の神父様だ、って認識はあったし、時々父さんや他の人たちといるところも時々見てたんだ。いつも嫌みばっかり言って父さんを困らせてたから、あの人嫌いだなと思ってたけど。……でもあれだけ困ってたところにそう親切にされるとね、何だかそういうことがどうでもよくなってきちゃって。この人は父さんを殺したんだってわかってたのに、それすら忘れそうになってた」
 僕も薄情だよね、と呟いたその声が少し沈む。
「実際、彼は本当に助けてくれたんだ。毎日教会に奉仕の活動をするだけで、毎日心配なくご飯を食べさせてもらえた。ちゃんと帳簿をつけていればお金は必要なだけくれたし、父さんが死んで学校を辞めてた僕に、その分の勉強までさせてくれた。……神様はちゃんと見ていてくださるんだと、あの頃は確かに思ってた。もしかしたらどうにか生きていけるかも、って」
 すっとその目から感情の色が消えるのをヤンは見た。……いや、それは消えたのではなかった。急に底が抜けて、奥の奥まで突き抜けたような。
「……でもしばらくしたある日、彼が言ったんだ。ここで。今僕がいるまさにここで、あの言葉を。……『君はよく主を敬ってお仕えする賢い子だ、もし頑張れるのなら上の学校にも行かせてあげよう。そうすればいつか、教会の仕事ができるようになる。……そうだな、後ろ盾のないのは心許ない。わたしの養い子ということにしようか』」
 一言一句覚えているというように、彼はジルヴェスターの口調を器用に真似ていた。そのままの調子で続ける。
「『──だからそのときのために、わたしのことはお父様と呼びなさい』って」
 その口元が笑みを形作る。目は深く暗い感情を湛えたままで、ちっとも笑っていなかった。
「……ふざけるなよ、と思った。その後ろ盾を、父さんを殺して、母さんがああなる原因を作って、僕から全てを奪ったのは誰だよって。彼さえいなければ僕はまだ父さんと母さんと幸せに暮らせていたはずなのに、僕をこんな状況に落としたお前がそんなことを言うのかって。……でももちろん、そんなことを口に出すわけにはいかなかった。僕は従順に『はい、お父様』と答えた」
「……!」
 ヤンは息を呑む。彼にとってのその言葉の凄まじい重さを、あのときそれに引っかかりを感じた自分が決して間違っていなかったことを知る。そして同時に、まさにその同じ言葉について、神父に聞いたことを思い出した。
(う……?)
 決定的な違和感。
 彼はエーミールからその言葉を聞く度、決意を確認すると言っていた。……『エーミールの将来を必ず守り育てていこうという決意』を。彼はそのことをひどく苦しげに語っていた。嘘をついているようには感じなかったと思う。
 これは──自分が騙されやすいだけなのか、それとも。
 だがその一瞬考え込んだヤンの様子をどう解釈したのか、エーミールは不意に、いつものような笑顔を浮かべた。
「しょうがないよね。僕は死にたくなかった。一度は死ぬつもりになったくせに、もうそんな風には思えなかったんだ。まだ母さんも生きてたし、自分にもこの先があるのかもしれないと思い始めてたから。だから、僕は……そのためにあいつを、父と呼ぶことにした。父さんを殺したあいつを。……このままでもいいかもしれないと思ってたなんて、自分は何て馬鹿だったんだろう、と思いながら」
 彼は少し俯いて、両腕で肘を抱いた。腹の底からこみ上げる衝動を抑えきれないようにその身体が揺れ出す。それがだんだん大きくなり、やがて彼は身を反らして、引き攣った笑い声を上げ始めた。
 ヤンははっきりとその様を見る。──今まで一度も見せようとはしなかった顔。これが彼の、本当の姿。
 怖いとは思わなかった。その孤独で苦しく悲しい笑いは、怒りは、これまで時折微かに感じ取っていたのと同じものだと思えた。むしろこんな感情をよくここまで押し隠したものだ、と驚く。
 ひとしきり響き渡った哄笑をようやく収めると、エーミールは目をかっと見開き、大きく息を吸って叫んだ。
「……そのときからずっと、ずっと僕はあの男に復讐するためだけに生きてきたんだ。何を投げ捨ててでも、何を失ってでも、必ずジルヴェスターを地獄に引きずり落としてやると誓ったんだ!」
 すぐ後ろの説教壇を殴りつける。ばん、とすごい音がした。ヤンは反射的に硬直する。エーミールは少しの間荒い息を吐いていたが、やがて涙を拭って顔を上げ、ああ、ようやく言ってやった、と笑った。
 ……エーミールが父親の死について、最初に話をしてくれたときのことを思い出した。
 当時の彼の心境を想像して泣いてしまったヤンのことを、彼が最後まで理解できずにいたようだったのは。
 彼があのとき感じていたのが悲しみでも寂しさでもなく、この狂おしいほどの怒りだったからだ。
 それこそがずっと彼の心の中心を占め、彼を支えて立たせていた。
「……」
 何を言ってやればいいのかわからずに、ヤンはエーミールを見上げる。彼は困ったように微笑み返してきた。
「……こんな奴だとは思わなかった、かな? いいんだよ、正直に言って。何を言われても怒ったりしない、絶対に君のことを傷つけたりしないから」
「……いや」
 ヤンは首を振り、言葉を探した。
「そんなことない。納得した。……ずっと前から、お前は誰と戦ってるんだろうって考えてたんだ」
「……」
 言われたエーミールの顔から笑いが薄れ、代わりに戸惑いが現れる。
「……どうして。結構頑張って隠してたつもりだったのに」
「言ってくれただろ。『戦える力が戻るまでは無理しちゃいけない』って。……そんなの、誰かと戦ってなきゃ出てこない言葉だ」
「っ……」
 彼は一瞬息を詰まらせて、感情を押し込めるように苦笑した。
「……そんなことで」
 だがごまかしきれず、その目にうっすらと涙が浮かぶ。
「……本当に君ときたら、聞いててほしいことは何一つ聞いてないのに、人が油断したときばっかりちゃんと覚えてるんだから」
 かなわないな、と呟いたエーミールに、ヤンは口をとがらせた。
「何一つってことないだろ。俺、そんなにお前の言うこと無視したか?」
「だってあんなに言ったのに、逃げてはくれないし罠には嵌まるし。散々じゃないか」
 エーミールはまだ苦笑いを浮かべながら言う。ヤンはその顔をまっすぐに見た。
「……本当に、どこか遠くに逃げてて欲しかったのか?」
「……」
 エーミールは目を逸らし、少し考え込んで、もう一度ヤンの顔を見る。
「……ううん。きっと、側にいてくれてよかったんだと思う。今夜だって……ヤンを助けなきゃって思ってなかったら、僕はもっとひどいことをして、二度と日の当たる場所を歩けなくなってたかもしれない。こんな風には頑張れなかっただろうと思う」
「ならまあいいじゃねえか、結果としては」
 ヤンが呑気に笑うと、エーミールはまた苦笑を浮かべた。
「それに振り回されるこっちの気にもなって欲しいなあ。大変だったんだからね」
 安心したように一つ息を吐き、エーミールは身体の力を緩めた。
「……でもまあ、君がそんな呑気なことを言ってられるくらい大丈夫なんだったら、それはそれでよかったよ。できる限り守ったつもりだったけど、結局怖い思いや不安な思いもさせちゃったと思うから。……ごめんね。ここに来てからは本当に余裕がなくて……」
「……いや、俺も悪かった。ごめんな、負担かけて」
 ヤンは首を強く振る。自分が嘘をつけないばかりにエーミールがひとりで全てを背負い込んでいたのだ、と思うと申し訳なかった。間違いなく彼には随分助けてもらったのに、ほとんど何も返せていない気がする。
「いいんだよ、僕が勝手にしたことだから」
 エーミールは笑ったが、すぐにその笑みは消えてしまった。