avenge
12-3.
ためらうような間。悲しげな目で、彼はヤンの顔を見る。
「ああ……どうしようかなと思ったけど、ここまで来たんだからもう隠し事はなしで行こう。……僕がここに来た理由はわかってもらえたと思う。でもその件より後に、僕は神父からもう一つ奪われている。……母さんだ」
「……!?」
思いも寄らない言葉に息が止まった。エーミールも苦しげに顔を歪め、胸を押さえる。
「今日話したよね。明日寄宿学校に送られるって話。僕もあれを聞いたのはほんの三日前で、それまではそんな気配もなかったのに。……これがどういうことかわかる? 母さんが死んでから僕がその話を知らされるまで、一週間強しかない。もし母さんの死がわかってすぐに神父が準備を始めたとしても、その間に全部の手続きが済むなんてあり得ない。小さな隣町ならともかく大きな町まで行くのに、歩いて片道三日かかるようなここで、それより遠くの学校に僕を編入させるややこしい相談を、そんなにすぐに進められたわけがない。馬や馬車を使ってもだ」
「……確かに」
ヤンは呆然とした。一週間強。馬車を見た覚えがあるからかかる日数は徒歩よりだいぶ減らせるとしても、曲がりくねった街道を通るしかなければそう何度も連絡が取れたとは思えない。
「……そしてそもそも、これは前提がおかしい。仮に『母さんの死がわかってすぐに準備を始めた』としても、それができるなら神父はずっと前からそのことを考えていたことになる。母さんの体調は、あの薬を飲むまでの随分長い間、安定していたのに。……この意味がわかるよね。彼は母さんが死ぬだろう時期を、大体把握していた。彼がケヴィンさんに命じて、母さんの薬をすり替えさせたんだ」
「……!」
絶句したヤンに、エーミールは力なく笑ってみせた。
「僕が甘かったよ。そんなことまでされると思ってなかった。ケヴィンさんがいるうちに気づければまだ何とかなったかもしれないのに、わかったときにはもうとっくに彼は発ってた。……その辺は君も知ってる通りだ。何もできなくて本当にきつかった」
「……甘かったってことないだろ、そんなのわかるわけ……」
「……うん。もちろんそう思う。でももう少しだけ気をつけておけばと思うとね、やっぱり」
目を伏せたその表情に、あの日々の彼を思い出した。……あれから一ヶ月も経っていないのだ。彼にとってもまだ鮮明な痛みだろう。
「……そうだ、君にひとつ謝らなきゃ。薬を買いに行ってもらったとき、僕は本当は、もうほとんど手遅れだと思ってた。でも最後まで足掻いてみたくなって……それに、できればそのときの顔を見られたくなくて。きっと泣けないと思ったんだ、母さんが死んだら僕はあいつの下に行くんだ、と思いながら側についてたから。……結局めちゃくちゃ泣いたし、動けないまま君に発見されたわけだけど」
ヤンは苦笑する彼に近づいて、そっと手を伸ばした。不思議そうな顔をする彼の頭を撫でてやる。
「……っ」
息を詰まらせた彼が口元に手を当てて俯くのを、そっと抱き留めた。
「謝ることない。お前がしてほしいようにしようと思ったんだから」
「……うん。ありがとう。あのときそう言ってくれて、本当に嬉しかった」
涙ぐんで幾度か深い息を吐き、エーミールはどうにかもう一度笑った。
「ああ、どこまで話したんだっけ。……そう、寄宿学校の話をされて、母さんの件に思い至って。そこで完全に限界がきた。まともにものを考えられる状態じゃなくなった。残り三日っていう期限を切られたのも効いた。そうでもなければ君から目を離すつもりなんかなかったのに、すっかり思考から外れてた……」
悔しそうに拳を握りしめた彼は、しかしヤンの顔を見るとその力を抜き、ふわりと微笑んだ。
「……君が気づいて助けてくれなければ、きっとあの場は切り抜けられなかった。ヤンは不思議だね、本当に必要なときには必ず、一番欲しい助けをくれるんだ」
「……あのとき何となく、お前のやろうとしてることがわかったからな。役に立ったんだったらよかった」
ヤンは笑い返す。エーミールは幸せそうに目を閉じた。
「……思えば最初からずっとそうだった。君に最初に出会った頃、僕はもう潰れてしまいそうになってた。いつか神父の足を掬ってやるって思ってたけど、僕はあまりにも弱くて何もできなくて。あの日君を見つけて、君が側にいてくれるようになって、君を守らなくちゃって思って……それでやっと、僕は自分を取り戻せた」
「……そうだったのか」
出会った頃から彼は頼もしかった、ような気がしていたが。
言われてみれば時折、ひどく不安定な様子を見せていたのも確かだった。
「母さんの時も助けてもらったし、結局ほとんど手も汚さないで済んだのも君のおかげだし。……神父にはちょっと毒を盛ったけど、まあそのぐらいは許してほしいな。多分あれじゃ死なないだろうから。しばらく寝込むのは間違いないだろうけど」
「……足止めしてきたって、それか?」
「うん。無駄にはしなかったよ、君が買ってきてくれた母さんの薬」
「えっ」
ヤンはまじまじとエーミールの顔を見た。彼は人の悪い笑みを浮かべる。
「実はこの森の奥には魔女が住んでてね、父さんに連れられて彼女に色々教わったことがあったんだ。……母さんが飲んでたジギタリスは慢性心不全の薬で、普通の人には劇薬だ。協力してくれたメイドの子に頼んで、ハーブティーと偽って彼に飲ませてもらった。出がけにちょっと見たけど相当苦しんでたみたいだ、おかげでちょっと溜飲が下がったよ」
「……うわー……」
ヤンは苦笑いした。これはさすがに、役に立ったならよかった、と言ってしまうと嘘になる。エーミールは顔を上げ、月光を透かすステンドグラスを見上げた。
「……本当はね、もし君がいなかったら、僕は神父の思う通りに生きようと思ってた。その代わり彼のすぐ側で、気づかれないように足を引っ張って、いつも気がかりなことがあるようにして、ひとときも心の休まる暇のないようにしてやろうと思ってた。自分には大それた復讐なんてできないから、せめてあいつが絶対に幸せになれないようにしてやろう、って」
「……いや……それもだいぶ怖いぞ……」
ヤンが呻くと、そうかもね、とエーミールは笑った。
「でも君が側にいてくれたから、思いもよらないような力が出せた。君と一緒に行きたいと思ったから僕は誰も殺さずにいられて、彼と同じにならずに済んだんだ。……そして君がいてくれたからこそ、こうしてここにたどり着くことができた。この説教壇の中に、彼が隠したいと思うもの全てが、あらゆる悪事の証拠が隠されてる」
エーミールは背後の説教壇を軽く叩いてみせた。ヤンの顔を覗き込む。
「君はあのときいなかったから知らないだろうけど、君の鞄から出てきた何かを見た神父が、大慌てでここに駆け込んだんだよ」
「……そうなのか?」
ヤンは首を傾げた。エーミールは頷いて、続ける。
「僕は今までにも機会を見て執務室やらあちこち調べてきたけど、決定的な証拠がどこにもなくて。どこか別に隠し場所があるんだろうと思ってたんだ。色々後ろ暗い書類がたくさんあるはずだったから。商人たちと物価統制を約束した覚え書きとか、鉱山関係の裏帳簿とかね」
「……ぶ、物価統制? 鉱山?」
聞いたことのない話が始まって、ヤンは目を白黒させる。エーミールは頷いた。
「神父は単独で鉱山の再開発を進めてたんだ。あまりうまくは行ってなかったみたいだけど。その主な資金源が物価統制ってわけ。……町が寂れた理由は鉱山が潰れたことだけじゃない。物価がじわじわ引き上げられていて、みんなの暮らしに余裕がなかったからだよ。そして彼がルドルフを使って、この町によそ者が入ってこないようにしていた理由もそれだ。よそとの交流が活発だと、不自然にものが高いのがばれるから」
「……! あのおっさんそんなことしてたのか……!」
「そう。……『ルドルフに言うことを聞かせられるのは神父様ぐらい』とは言ったことがあるよね。彼はあれで神父の片腕だ、僕も理由は知らないけどほぼ神父の意のままに動く。こう言えば君がルドルフに喧嘩を売ったとき僕が青ざめた理由もわかるでしょ、本当にあのときは死ぬかと思った。体調以上に状況がひどすぎて」
エーミールはその時のことを思い出したのかくすくすと笑った。
「……それはあれだ、そんなの全然知らなかったから」
「あれは正直、君に黙ってたことを後悔したよ。まさかあんなの本気でやるとはね。何だっけ、『大事な玩具で金づるだからなあ』だっけ?」
「……は、恥ずかしいからあんまり思い出さないでくれ……」
ヤンは目を逸らす。えー、どうしようかな、とエーミールはいたずらっぽい顔で応えた。彼はヤンの手を引き、説教壇の設置された一段高い床に上がる。
「……まあそういうのもね、屋敷に入っちゃったら外のことはなかなか調べられないと思って、君と出会うより前は結構下準備をしてたんだ。町の人たちとたまたま一対一で会えたときにこっそり話を聞いたり、森に自分で調べに行ったりね。……ただ明確な証拠だけが見つからなかったけど、今、ようやく手が届く」
エーミールは言いながら、奥の十字架に磔にされた救世主の光背に手を伸ばした。ええと、右の五本目の、と指さし数えて、彼はそれをいじり始める。
「……それさえあれば、どこにいたって、いつだってあいつをどん底にたたき落としてやれる。何も苦しい思いをしてここに留まる必要なんかないんだ。僕はここを離れていいんだ」
どこか自分に言い聞かせるように呟きながら、エーミールはやがて、光を表すその細い棒の一本を外した。台座に差し入れると、そこにあった小さな抽斗が開く。
……ヤンは彼の背中を見ているうちに、迷いを感じ始めていた。
エーミールには確かに復讐するだけの理由がある。彼がどれほど苦しんできたのかは自分でも見てきてよく知っている。別に止めたいわけではないし、それで彼の気が済むのなら構わないとも思う。相手の命までは奪わないと言っているのだから、やりたいようにさせておけばいいはずだ。
だが何故か、それをすっと飲み込むことができない。何故かこのままではいけないという気がする。恐らくその理由は、あのとき神父と至近距離で話して、偽れそうにない苦しみの顔を見てしまったからだった。
エーミールが知らないだろう彼の顔。何か二人の間に、すさまじい認識の断絶と食い違いがある。奇しくもエーミール自身が一度口にした通り、『神父は彼にだけは優しい』のだ。エーミールが熱を出して倒れたときも、神父は神父なりに確かに彼を心配し、気遣い、保護しようとしていたのに違いない。
……だがこれほど神父に苦しめられてきたエーミールの前で、そんなことをとても口に出せない。神父の本心がどこにあったとしても、エーミールの苦しみは本物だ。
ためらって立ち竦んでいるうちに、抽斗から出てきた古い鍵を手にして、エーミールは説教壇に向かった。巧妙に隠された鍵穴に鍵を差し入れる。かちりと音がして、説教壇の天板が僅かにずれた。
「さて、と。ようやくご対面だ──」
天板を両手で外したエーミールは、しかしそこで動きを止めると目を瞬いた。
ヤンは隣から覗き込む。複数種類の書類が何冊も積まれ、秘密の収納場所の中はかなり混雑していた。だがその上に、見覚えのある一冊の、メダルのついた黒い手帳が。
「……あー! これかー!」
ヤンは声を上げた。先ほどエーミールの父の名前を聞いたときに『覚えがある』と思った理由にやっと思い至った。この手帳の署名だったのだ。
「……え、え、何? 父さんの野帳……何でこれがここにあるんだ?」
エーミールが完全に困惑した声を上げる。手帳を見て、ヤンの顔を見て、また手帳を見る。
「俺これ拾ったんだよ、鉱山の近くで。栗拾いの日だった。全然読めねえからお前に聞こうと思って持って帰ったけど、そのあとすっかり忘れてたんだ」
「……え、確かに家では見なかったなとは思ったけど、そんなところに落ちて……?」
エーミールは天板を脇に置くと震える手を伸ばし、それを手に取った。ぱらぱらとめくる。相変わらずヤンには理解できない、記号と数字の羅列。彼は何度も瞬きをしながらそれを眺めた。
「結局何が書いてあるんだ? それ」
信じられない、という顔でエーミールは適当なページを開き、記号と数字を指差す。
「……これは獲物の種類と、数と、見つけた場所。父さんの猟の記録だ。確かにつけてた覚えがある……特定の種類の獣を減らしすぎないように、幼獣の生まれる時期は親を早くに奪わないようにって。……まさかこんなものが、三年も風雨に耐えて残ってたなんて……」
息を詰まらせ、少し涙ぐんで、彼は手帳を閉じるとその表紙を撫でた。
「……はっきり言ってこれは父さんと僕にしか読めないし、他の人にとっては何の意味もないものだよ。でもそうか、僕が脅迫者の存在を匂わせていたところに、君の鞄からこれが出てきたから……内容が読めなくても署名でこれが父さんのものだってわかって、何か重要なものだと信じたから……それで神父はあんなに慌ててここに来たんだ……!」
彼は手帳を放り出し、感極まってヤンを引き寄せ抱きしめた。
「……ヤン、君は、君は本当に最高だ! 最後の最後まで、一番必要なときに助けてくれた……!」
泣き出しそうに熱い身体をすぐ側に感じて、ヤンはその背中に手を回してやる。軽くぽんぽんと叩いていてやると、すぐ近くで啜り泣きが聞こえた。少し落ち着かなくて、苦笑する。
「……役に立ったんならよかったよ。いまいち何が何だかわかんねえけど」
「ううん、本当に助けてもらった。君がいてくれてよかった……」
……ヤンに抱きついてひとしきり泣いた後、エーミールは身を起こし、説教壇の中の書類をごっそりヤンの鞄に移した。そこでふと思いついた、というように、鞄の中から鉛筆を一本取り出す。
「せっかくだ、メッセージを残していこう。……どう書こうかな。あれくらいで神父があんなにうろたえるなら父さんの名前は入れたいな。でも場所もないし、あまり長くは書けないか……」
しばらく鉛筆の先を舐めたあと、エーミールは空になった収納場所の底に綺麗な字でさらさらと綴った。
──『僕はアロイスの息子エーミール。あなたが僕と僕の父にしたことを、僕は一時たりとも忘れたことはありません』と。
ふたりは教会の外に出る。エーミールは夜の空気を吸い込んで、笑った。
「ああ、こんな日が来るなんて思わなかった。……自由だ」
月の冷たい光の下ですら心から笑っているのだとわかる、今までのどのときとも違う顔。彼も今宵、ある意味脱皮したのだ、という気がする。いや、一皮剥けた、というのだったか。
「……よかったな」
こちらも間違いなく心からの祝福は、しかし口に出してみると思ったよりそっけない言葉にしかならなかった。それでもエーミールはにっこり笑う。
「行こう」
「ああ」
ふたりは夜の闇に紛れて町を出る。
遠くから悲鳴のような叫びが聞こえてくる。アントン先生が留守だ、何でこんなときに、と。
「……」
エーミールが真面目な顔で呟いた。
「……あれ。まずいな、先生がいないとするとあいつ、もしかするとそのまま死んじゃうかも」
「……まずいけど、それはしょうがなくねえか? 俺たちが戻ってもどうなるもんでもないだろ」
「……うん、それもそうかな。あ、誰かの家に書類少し置いていこう。鉱山の件は早いうちに町の人たちに知ってもらわないと」
彼は笑って、大きく伸びをする。
「さあ、急ごう。どうせすぐには追ってこられないけど、夜が明ける前にある程度遠くまでは行かないとね」