avenge
12-4.
『ジル! ……ジルヴェスター! 何を考えているんだ! あの山はもう掘るべきじゃないんだ、一体何人犠牲になったと思ってる!』
『……アロイス、お前ならわかってくれると信じていたのに。この町はあの鉱山で保っていた、鉱山なくしては成り立たないんだ。このままではどのみち人が減って、近いうちに立ち行かなくなる。十分な落盤対策を講じているのに何が悪いというんだ』
『対策が十分かどうかなど誰にわかる! ……お前は身内が死んでいないからそんなことが言えるんだろう、息子を亡くしたモーリッツが、夫を亡くしたマルティナが、どんなに悲しんでいるかわからないのか!』
『……いや、わたしもあの事故で叔父を亡くしている。だがそれでも必要なことだ。他の誰もやりたがらないならわたしが主導する。逆らわないでくれればそれで構わないんだ』
『駄目だ、同意できない!』
『……残念だよ、アロイス。……我々は三日後から鉱脈探しをすることになっている。この決定は覆らない。お前が何を言ってもだ』
『……ジルヴェスター……!』
──かつての不幸なすれ違いの夢から覚めて、ああ、とジルヴェスターは息を吐いた。見慣れた天蓋付きのベッドの内側を見上げる。
あのひどい症状に襲われてから、かなりの時間が経っているらしかった。日を数えるだけの余裕もない頭痛と、もはや何がどうしているのかわからない嘔吐と下痢、それから気の休まる暇もないひどい脈拍の乱れに襲われて、ジルヴェスターは心身共に消耗し尽くしていた。
「……起きたか、旦那」
枕元でうたた寝をしていたらしいルドルフが、なぜかひどくぼんやりとした表情でそう言ってくるのを、何とか手だけで探してかけ直した眼鏡を通して見る。
「……ルドルフ。わたしは……一体、どうしていたんだ?」
まだ気を抜くと吐き気が込み上げてくる。きつく眉を寄せてその波を堪えた。ルドルフは覇気のない声で答える。
「……アントン先生がいないんで細かいことはよくわからねえんだがよ、あのアーデル何とか神父が『多少の医術の心得があります』って色々してたぜ。手つきが怪しかったんで追い出したが。……あいつに毒でも盛られたんだよな?」
「……毒? あいつ……とは一体、誰のことだ……?」
まだろくに頭が回らない。ジルヴェスターの視線が不安定にぐらついたのを見てか、ルドルフが軽く顔の前で手を振る。
「……旦那、まだ無理しない方がいい。隣町から今もう少しまともな医者を呼んでるからよ、まだしばらくは休むんだ」
「……そうか……わかった……」
眼鏡をかけたせいなのか急速に戻ってきた頭痛に負けて、ジルヴェスターはもう一度目を瞑った。
……それからまたしばらく、苦しい眠りの中を漂いながら。
ジルヴェスターはエーミールの父であるアロイスのことを思い出していた。
アロイスはまだこの町が栄えていた頃、自分の少年時代の学校の同級生だった。確か半年ほど、自分の方が早く生まれていたような気がする。彼はただの鉱夫の息子でありながらその聡明さは頭抜けていて、自分よりもいい成績を取っていたことさえあった。ジルヴェスター自身は高等教育に進むことを前提として、早い段階から家庭教師をつけていたにもかかわらず、だ。
そして何より彼は、人に好かれた。
誰にでも共感をもって接し、いつでも理知的で優しかった。そのくせ、誰にも害のないちょっとしたいたずらなどには好んで参加した。同級生の一人が友達のものを盗んだと疑われたときも、ただ一人最初から最後までまっすぐに彼を信じて、魔法のように失せものを探し出してきた。好かれないはずのない人柄だった。
当然ジルヴェスターも、アロイスのことは好ましく思っていた。比較されて腹が立つこともあったし、いつも人の輪の中にいる彼を羨ましく思ったこともあったが、それでも心のどこかでいつも尊敬の念を感じていた。鉱山の近くでたまたま拾った鉱石を二人で溶かして作った揃いのメダルは、外部の学校に通うため町を離れたジルヴェスターにとって宝物になった。
……寄宿学校を卒業し、更に神学校も出て町に戻ってから数年後、あの落盤事故が起きて、アロイスは父を、ジルヴェスターは叔父を、そして町の多くの人々が遠かれ近かれ一人や二人は身内を亡くし、ぽつりぽつりと町を離れる人が出始めた。既に外の世界の知識を得ていたジルヴェスターは、今ここで自分が立ち上がらなければならないのだ、と悟った。
学生時代にすらしなかったような猛勉強をした。それまでは学ぼうと思ったこともなかった鉱業の知識を、必死で噛み砕いて飲み込んだ。本当に、きちんと、できる限りの準備をしたのだ。あとは町の人々を説得するだけだった。
……それなのに。
人々のほとんどが、わずかにその話を聞くや、嫌そうな顔をして離れていって。
そしてあの夜ついに、アロイスが屋敷を訪れた。
彼ならば話を聞いてくれるだろうと期待していた。理性的な会話を重ねればきっと理解してくれると思っていた。彼はそれができる相手だと信じていた。
だがアロイスは声を荒らげてジルヴェスターを責め、交渉は完全に決裂した。
……翌日『鉱山に集めた作業員をアロイスが直接説得して止めようとしているようだ』と密告してきたのは、腰を痛めてこのかた、回復してもなおジルヴェスターの庇護下にあったフランツだった。
──同行して阻止しろ。あわよくば殺してしまえ。
それが彼の下した指示だった。もうそれ以上、変わってしまったアロイスを見ていたくないと思った。
……だが、そのやり方が失敗だったことは言うまでもなかった。
アロイスの葬儀を自分の手で執り行いながら、ジルヴェスターは深い後悔に苛まれていた。死人に口なし、という言葉の意味を初めて知った。殺してしまったらもう、二度とわかり合うことはできないのだ。
あまりのことに、その後数日の記憶がろくにない。フランツに脅され、家まで呼びつけられたのは覚えている。だが彼を殺してしまった経緯がよくわからない。ふらふらと歩いていたらルドルフにぶつかって事情を聞かれ、何故か彼は自ら現場の状況をごまかしに行ってくれた。ラルフが現場を調べ、アントンが検死をしたのに、結局犯人は割り出されなかった。
……続いた衝撃のせいで心身ともにがたがたになっている、という自覚はあった。
だが立ち止まっていることはできなかった。そこまでのことをしてしまったのだからどうあっても町を復活させねばならないと思った。商人を囲い込んで町の物価を高めに統制し、その条件によって商人たちから得たマージンで鉱脈を探した。教会への寄付金も、どうしても必要なものを設える以外はすべて鉱山に注ぎ込んだ。まだ資金が足りない最初のうち、幾度かは死者の遺言を書き換えて、遺産をかすめ取りすらした。あれ以来一度たりとも、自分が死んでいつか天の国に行けると思ったことはない。
だが、天使は舞い降りてきた。
春先のまだ寒い夜、どういうわけか聖堂で行き倒れていた少年エーミールは、額や目こそ母親似だったが、アロイスにそっくりの口元をしていた。そこで初めて、彼の家族のことを忘れていた自分に気づいて愕然とした。
慈しみ助けたいと思った。自分にできることなら何でもしてやりたいと思った。
鉱山に流す金額が減り、彼に学問を教える時間が増えた。アロイスが死んで学校を辞めていたはずのエーミールは、恐ろしいまでの吸収力を発揮して、あっという間に本来の学年を遙かに超える知識と知恵を身につけた。
これまで一度もそんなことを望んだことはなかったが、自分にも息子というものがいたらこんな風なのだろうか、と思った。いつかは彼を養い子に迎えたい、と思うようにさえなった。もう決して見失うことはないはずだと思ったが、彼から父と呼ばれるたびに己の決意を確認した。彼を守り育てなくてはならない。アロイスの代わりに。
……なのにそうして過ごしているうちに、ふと怖くなった。
ここでこのまま暮らさせておいたら、彼もアロイスのように堕ちてしまうのかもしれなかった。暮らし向きに余裕がないせいか、アロイスと違って友人関係はあまり豊かでないようだったが、彼にはこんな狭い町から外に出て、一刻も早く広い見識を育ててほしい、と思った。
だが一方で、それがどういう意味かは自分でもわかっていた。彼をこの場に繋ぎ止めているのは母親だったが、それはとりもなおさず彼の心の支えでもあった。彼の代わりに彼女の面倒を見るくらいなら何の問題もないとは思ったが、あまりに大切そうに母との時間を過ごす彼を見ていると、とても母と別れて外の世界に出ることを促すことはできずに、そのまま一年以上が経った。
……その間ずっと、怖かった。ただひたすらに怖かったのだ。
彼がここにいるまま、もしも自分の思ったようでなくなってしまったら。いつか自分の意思によって、あのときのアロイスのように彼を詰ったら。
──もしかしたら、自分はまた同じように。
そう思うと恐ろしくて、まともに眠ることすらできなくなった。自ら定めた道標を見失わないと信じたかったが、既に誰より大事だった友人を手にかけた自分自身のことなどまるで信用できなかった。
……そう、そして、あれはいつのことだっただろうか。
奉仕の作業中や勉強のさなか、ずっと気弱そうだったエーミールが時折、アロイスとよく似た快活な笑みを浮かべるようになっていることに気づいたのは。
危険な兆候だと思った。彼をどうあっても、すぐにでもここから引き離さなくてはならないと思った。
そしてジルヴェスターは、彼の母の薬を扱っていた商人をとんでもない金額で買収し、彼の母をついに殺した。……学年で二つ下の、ジルヴェスターにとっても幼なじみだった女性だった。
そのあとになって、彼にあの笑みを浮かべさせる原因になったと思しき少年が、確かに町にはそんな子供はいなかったはずなのに、突如どこからか出現してきて──
「──エーミール……エーミールはどうした。ヤンは」
ジルヴェスターは再び目を開けた。あのあとどのくらい時間が経ったのか、今は側にルドルフはおらず、昔からの付き合いであるメイド長が、いざというときに備えて洗面器を構えていた。
さしあたって大丈夫そうだと思ったか、洗面器を置きながらメイド長は厳しい顔をする。
「……おりません。あの晩、二人揃って失踪しました」
「なんだと!?」
思わず体を起こす。心臓がいきなり早鐘を打って、頭がくらりとした。
「……申し訳ないのですがもうひとつ、いえふたつ残念なお知らせが。……まず、先日雇い入れたばかりの、私の知人の紹介だったユーディットですが、彼女もあの日から失踪しています。どうも別件のようですが。……それから医師のアントン先生が同じくその晩から、『旅に出ます、探さないでください』と書き置きを残して、こちらも不在です……」
「な……」
ジルヴェスターは絶句する。
あの日──あの晩、自分が急な体調不良に襲われている間に、いったい何が起こったのだ。
「……ルドルフを……ルドルフを呼んでくれ」
彼ならば多少なりとも事情を知っていそうだと思った。メイド長は立ち上がり、ルドルフが入れ替わりに部屋に入ってきた。
「……よう、旦那」
彼はまだ、どこかぼうっとした目をしていた。
「おい、しっかりしろ、何があった!? わたしが伏せっている間に、いったい何があったんだ!?」
「……」
ルドルフは曖昧な笑みを浮かべる。
「俺も突然後ろから殴られて古井戸に落とされてたんで、詳しいことはわからねえ。だがエーミール、あいつは……あいつはもう二度と、あんたの元には戻らないでしょうよ。あいつの親父のこともヤンのことも、何もかも知ってるみたいだった」
「失踪する前にあの子と話したのか!? なぜ止めなかった!」
「……話したっつうか話されたっつうか、ね。無理言わねえでください、とても俺の手には負えませんでしたよ」
「いや、待てルドルフ、わからない、何もわからない……手に負えなかったとは一体何の話だ……!」
問い詰めるとルドルフは、やっと少しはっきりした眼差しで、ジルヴェスターをまっすぐに見た。
「……旦那、あんたも聖堂に行ってみたらいい。あいつの書き置きがある。どうせいずれは見ねえとならないもんだ、今行ったって早すぎはしねえ」
妙に含みのある言葉だったが、そうと聞いては行かないわけにはいかなかった。聖堂……聖堂には、あれがある。秘密の隠し場所が。
ざわり、となにか嫌な予感がしたが、それを黙殺してジルヴェスターはルドルフの手を握った。
「……腰が立ちそうにない、連れていってくれ」
「あんたの頼みなら」
しかし答えたルドルフもよく見たら松葉杖姿で、右足首を副え木を使って固定していた。
ふたりで緩慢に歩き、聖堂に移動する。今は人のいない聖堂の説教壇をジルヴェスターが指差すと、ルドルフは小さく頷く。
……胸騒ぎがした。
支えられたまま説教壇まで歩こうとしたが、半分ほどのところでなぜか、急にルドルフが足を止めた。突然、空いた手でジルヴェスターの眼鏡を奪う。視界が一挙に不明瞭になった。こうされるとジルヴェスターにはもうほとんど何もできない。
「……な、何をするんだルドルフ!」
うろたえて声を上げると、ルドルフは低く圧し殺した声で言った。
「……ジルの旦那、あんたには俺が何を言ってるかわからないだろうが、今だけ言う通りにしてくれ。多分これは俺がおかしいんだ、理解できなくて構わないから、今だけ頼む。──結婚式のあれをやってくれ。『病めるときも健やかなるときも』ってやつを」
「……は?」
確かに何を言われているのかさっぱりわからなかった。だがジルヴェスターには、まともに像を結ばない視界の中から聞こえてくるルドルフの声が、ひどく切実で必死なものに思えた。眼鏡もそのままでは返してくれそうにないので、従うことにする。
「……よ、『喜びのときも悲しみのときも、病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しいときも』」
ルドルフが大きく息を吐くのが聞こえた。
「……『これを愛しこれを敬い、これを慰めこれを助け、その命あるかぎり真心を尽くすことを誓いますか?』」
「……、『誓います』」
そして返答があった。眼鏡をそっと戻されて視界が何とか復活する。自分で位置を整えていると、ルドルフがぼそぼそと呟いた。
「……あのとき変なことを言わされた、でいいから覚えておいてくれ。自分でもどうかしてると思うぜ……ただどうしても、今、こうした方がいいと思ったんだ」
「……意味がわからない」
「俺もだ」
ルドルフはジルヴェスターの肩を支え直し、もう一度説教壇に向かって進み始めた。
ジルヴェスターは思う。……今の誓いの言葉は一体何だったのだろう。ここには自分とルドルフしかいない。だが主の前でルドルフは確かに宣誓した──それは一体、誰に対する何の誓いだ?
だが説教壇を回り込むと、ジルヴェスターは完全にそれどころではなくなった。
……何年か前からずっと表沙汰にできない諸々を隠してきた秘密の収納場所が開いていた。その中にあるべきものは一切合切、何も残ってはいなかった。
「なっ……」
慌ててルドルフの手を振り払い、説教壇にすがりつくように覗き込む。確かに空だった。それどころか底に何か、鉛筆で文字が書き込まれていた。激しく震える指でそれをなぞり、少し進んでは最初に戻り何回も何回も読み返して。
ようやくジルヴェスターはそこに書かれていることを理解した。
エーミールと出会ったそのときから、彼は何もかも全てを間違えていたのだと、その文字列が伝えていた。密かに待ち望んだ断罪の時が、まさにその権利を持つただ一人の手によって、今ついに訪れたことを知った。
「あ──あ、あああああああああああ! エエエエエエェェェェェェミィィィィィィィィィルッッッ!!!!!」
積み重ねてきたすべての感情が、制御を失って暴発する。
彼は絶叫した。