avenge

12-5.


 ……それは悲嘆か、怒りか、絶望か。あるいはその全部をごちゃ混ぜにして煮詰めた、目を背けたくなるようなものだったろうか。
 魂が消し飛ぶようなジルヴェスターの悲鳴を耳にして──
 ルドルフはやりきれない表情で目を瞑り、神に祈るように両手を組んだ。
 アロイスを殺してしまってこのかた、ジルヴェスターがその亡霊にとりつかれていることは、薄々察していた。それは生前のアロイスとは似ても似つかない何かだったが、確かに彼に匹敵する存在感でジルヴェスターを支配していた。知り合った頃に彼が持っていた本来の人格の枠組みが、ルドルフがかつて頼もしく思った知性の輝きが、彼自身まるで気づかないままに徐々にその亡霊に蝕まれていくのを、この三年、間近でずっと見てきた。
 ……彼はアロイスを殺すべきではなかったのだ、と思う。アロイスの死から、多分すべてが始まった。
 その知らせを聞いただけで卒倒したらしい彼が、それでもかろうじてアロイスの葬儀を執り行っていたときの、心をどこかに落としてきてしまったような顔を覚えている。彼はあのとき、明らかに危険な状況にあった。放っておくわけにはいかないと感じた。
 ──なぜなら、かつてルドルフがまだ他の町に住んでいた頃。
 はずみで人を死なせてしまって投獄され、刑期を終えても身元を引き受ける者がなく留め置かれていたとき、ジルヴェスターが彼を助け、この町に招いてくれたからだ。
 だが数日後、呆然とした表情でふらふらと町を歩いていた彼に行き会い、保護して事情を聞いたときには愕然とした。真っ青な顔で、吐き気を堪えるようにしながら、人を殺してしまった、と彼は訴えたのだ。玩具のような小さな銃を、彼は懐に呑んでいた。
『フランツの家に呼び出されて……彼にひどく責められて……気づいたら彼が、目の前で死んでいたんだ。よく思い出せない……だが多分、わたしがこれで撃った……』
 ……最初に思ったのは、彼を保護したのが自分でよかった、ということだった。はずみとはいえ人を殺したことのある自分が相手でなければ、彼はそれすら口にできなかったことだろう。
『……わかった。俺が何とかするから旦那はここにいてくれ』
 とはいえ彼を一人で放っておけば何をするかわからなかったので、とっさに湯を沸かして紅茶を淹れ、多めのブランデーを混ぜて飲ませた。彼がひどく酒に弱く、わずかでも飲めばほどなく眠ってしまうことを知っていた。
 そうして無理矢理寝かしつけてフランツの家に向かい、確かに彼が撃たれて死んでいるのを見て、どうしようかと頭を巡らせた。
 あまり頭のいい隠し方をしてはいけないと思った。あくまでもジルヴェスターを助けようとするのなら、彼が到底やりそうにない下手な偽装を施すべきだ。幸い、元猟師だったフランツの家にはまだ猟銃があり、銃創の説明をつけるのは簡単だった。右手の怪我はとっさに彼が身を守ろうとした痕跡だったろうが、あえてその手の側に銃を置いた。
 ……もしも捜査されて犯人が見つかるとしたら、自分が身代わりになろうと思ったのだ。どうせ一度も二度も同じことだ、と考えていた気がする。
 そこから事件が発覚するまではあっという間だったが、結局二人のどちらも、犯人として名指されることはなかった。というより、どういうわけか猟銃の手入れの事故として処理されてしまった。フランツの眼窩に潜り込んでいた弾丸が猟銃のそれであったはずはなく、現場にしても銃創にしてもまともに調べれば偽装であることがわかったはずなのに、何故か関わった誰もそれを言い出さずに捜査が終わった。
 そのせいで二人は逆に窮地に陥った。人に言えない秘密を抱え込む羽目になってしまったのだ。
 しかも悪くしたことに、ジルヴェスターがフランツに責められた──ルドルフは話を聞き、自分ならば間違いなくそれを『強請られた』と表現すると思ったが、あくまでもジルヴェスターは『責められた』と言った──その理由が、また輪を掛けてとても人には言えないような内容だった。どうして彼がフランツにそんなことを命じてしまったのかはわからないが、『自分が彼に、アロイスを殺すように言ったからだ』とジルヴェスターは告白したのだ。
 おいおい、告解を聞く側と話す側が違うだろうよ、と、正直なところ思った。何がどうしてそんなことになってしまったのかさっぱりわからなかった。
 ……だがもう、戻る道はなかった。彼らは共犯者として生きざるを得なくなったのだ。
 その後しばらくのジルヴェスターはひどく不安定だった。頼むから休んでほしいとルドルフはずっと思っていたし、何度かは直接そう訴えたが、彼は聞く耳を持たなかった。彼の中で強い支配力を発揮し始めた亡霊に突き動かされて、彼はますます人に言えないようなことに手を染め、孤立を深めていった。すぐ隣にいるルドルフすらも見えていないかのようだった。
 彼がようやく少しルドルフの話を聞くようになったのは、数ヶ月後にエーミールを拾ってからだ。ほとんど硬直していた顔にわずかずつだが表情が戻り、穏やかな目つきを見せることも増えた。ルドルフはエーミールのことを、アロイスの息子にしては随分気弱そうで頼りない少年だと思っていたが、ジルヴェスターが心から彼のことを歓迎していたので、余分な口を挟もうとは思わなかった。
 ……彼がそのままどうにか立ち直れればよかったのに、と今でも思う。
 エーミールが成長するにつれ、いつしかジルヴェスターは、また別の不安に囚われ始めたようだった。ケヴィンを買収した件はルドルフから見ても意味がわからなかったし、そのせいで気づくのが遅れた。彼がいつも通り自分を頼ってくれていれば、また彼が手を汚すのを止めることができただろうに、そのときに限って彼は自分で直接ケヴィンを呼び出し、多額の報酬を積んで無理矢理従わせたのだ。
 そして、ヤンの件も。
 正直なところ、あのときは自分もどうかしていた。今回は自分に頼んでくれただけマシだ、最悪自分が罪を被れば済む、というところで思考を止めてしまったのだ。どう考えてもジルヴェスターを説き伏せ、やめさせるべきだった。そうしていれば彼はひどく抵抗しただろうが、少なくともラルフを死なせずに済んだだろう。
 ……だがどうかしていたからと言って、あの行いは到底許されていいものではない。エーミールが怒り狂うのも当然だった。翌朝古井戸から助け出され、説教壇が荒らされていたと聞いてどうにかここを訪れたとき、前夜の彼の様子を思い出して、ああ、と声が出た。
 きっと彼は、二人のしてきたことを何もかも見通していたのだろう。父親譲りの聡明さが彼に全てを教え、彼の中に復讐の炎を点し、それをジルヴェスターが無自覚に、不器用極まりない接し方で押さえつけていた。その中で煮詰めに煮詰められた感情が、エーミールをあの夜、とうとう化け物にしたのだ。
 すべては自分たちの所業の報いだった。これほどの事態に至ってはルドルフでさえ、これ以上ジルヴェスターを庇い続けることは、もうできそうになかった。
「……なあ、ジルの旦那よ」
 目の前でくずおれて頭を抱え、呻きながら震えているジルヴェスターを見やる。まだ回復しきっていない身体には殊更に酷な衝撃だったのだろう。苦痛に顔を歪め、反吐を吐き、混乱して周囲を見回す目から眼鏡がずり落ちかけていた。
「あいつは化け物だったよ。きっともう人間じゃなかった。……そこまで追い込んだのは俺らだが、そうであってもな」
 どうせ聞こえても見えてもいないと知りながら声をかけ、近づいてそっとその隣に座り込む。生まれたばかりの獣の仔のように震え、ありもしない何かを四つん這いで探している彼が、ひどく頼りなくて守らねばならないものに見えた。
 ……エーミールはあの晩の最後の瞬間、もしかすると一瞬だけ人の顔に戻ったのかもしれなかったが、あれほどの闇を抱え込んだままならば、この先まともではいられまい。
「これからきっとろくでもねえことが始まるよ。あんたももう無関係ではいられない。ここからがやっとあいつの番だ、ひどい困難が襲ってくるだろう──だが、それでも」
 ……ジルヴェスターのこの混乱が一時的なものなのか、それとももうずっとこのままになってしまうのかはまだわからない。だがルドルフは、だからこそさっき、こうなってしまう前に、彼にあの言葉を聞いておいてほしかった。誓いの言葉を。結婚式のあれをやってくれ、は流石に妙だったかとは思ったが、彼の中にほんの少しでも印象が残ることに賭けて、意表を突くだろうやり方を選んだ。
 どうしてもあのタイミングで、彼の中にその言葉を放り込んでおかなくてはいけなかったのだ。ここであの書き置きを見てしまえば、自分と同じくジルヴェスターもまたエーミールの前に確実に膝を屈することになるのを、ルドルフだけは知っていたのだから。
 ……そのとき何がきっかけになったのか、まだ混乱の最中にいるジルヴェスターが、ふと少し顔をあげてルドルフの方に顔を向ける。
「……それでも俺はあんたの側にいるよ。乗り掛かった船だ、今更逃げるわけにいかねえ。だいたいあんなもんに遭っちまってこれからよそでやっていけるほど、俺だって器用じゃねえからな……」
 ──それは視力のせいなのか混乱のせいなのか、顔を見合わせてなお、結局彼とルドルフの視線が出会うことはなく。
 ルドルフは苦く笑ってジルヴェスターを片腕で引き寄せ、
「……だから今は、少し休め」
 その頭を抱くようにして、そっと意識を落としてやった。