avenge
13-1.
死人に口なし? とんでもない。
死人ほど能弁なものは、そうはいないっすよ。
◇
それは次の早春のことだった。
商人ケヴィンは数ヶ月ぶりにその町を訪れた。
それまでは月に一度は商売をしに来ていたから、随分間を開けてしまったことになる。ほとんどのものは他の商人に密かに引き継ぎをしていたので、特に人々の暮らしに支障はなかっただろうと思うが、何となく不義理でよくなかったな、と気にはなっていた。
……ただ今日、彼がこの町を訪れたのは商売のためではない。
ほとぼりが冷めるのを待った卑怯さに自分でも嫌気が差すが、彼はここに、謝罪に来たのだ。
この町があの後どうなったか、この数ヶ月、噂には聞いていた。
急激に体調を崩したジルヴェスター神父は、少し離れた町の病院に送られて入院した。その間に、彼が密かに動かしていた鉱山の件と、その主要な資金源であった商人による物価統制と裏取引が町の人々に露見した。彼らがこの町によそ者が入らないようにしていた理由がまさにそれだ。不自然にものが高いことを人々に気づかせてはいけなかった。ちなみにこの件ではケヴィン自身も、商人の組合からこってり絞られた。
鉱山は町の総意をもって閉鎖されたが、鉱山の労働者だった者たちがいくらか町に住むようになり、代理の神父が来て宗教行為を執り行うようになり、医者も新たに招いて、町の人々は何とか暮らしているらしかった。
だがエーミールは母親を亡くしたあとしばらくして、人知れず町から出奔したらしい。
……だから今日、ケヴィンが謝ろうとしている相手は、彼ではなかった。
教会の南側、日当たりのいい場所に、町の共同の墓地がある。そこに行く途中で道ばたの小さな花を摘み、小さな花束にした。墓碑銘を見ながら探して歩く。まだ半年も経たないから新しいはずだ。
作られてからまだ本格的な春を迎えておらず、周囲にほとんど草の生えていないその墓の前に跪く。花束を捧げて目を閉じ、祈り、心からの謝罪を伝えた。
(……エーファさん、本当にごめんなさい。借金があったとはいえ、あっしは完全に、人としてやってはいけないことをしました。何の罪もないあんたを、全部わかってて見殺しにしました。本当に、本当にごめんなさい……)
ジギタリスに混合されるべきホーソンを、同量のセントジョンズワートに──
その注文を薬屋に出したとき、当然のこととして怪訝な顔をされたのを覚えている。顧客の要望だと突っぱねた。顔が蒼かった自覚はあった。仕事としては運ぶだけとはいえ仮にも薬を商っているのだ、知識がないわけではない。
……そうしてしまえば自分の知らないところで人が死ぬだろうことを知っていたのに、金に目がくらんで引き受けてしまった。謝って謝りきれることではなかった、それでもどうしても謝りたかった。
たっぷり五分ほどそうしていただろうか。ケヴィンはそっと両手をほどいて顔を上げ、
「……うぅわああああああ! なんっ、なんっすか!」
そのとき目に飛び込んできたものに腰を抜かして、盛大にひっくり返った。
……実はケヴィンには、あまり人には言いたくない特技があった。簡単に言うと、『見える側』の人間なのだ。普段はそれほど役に立つ能力でもないのだが、人狼事件が起きたとき、処刑されたのが人間か人狼かを見分けることは確実にできた。つまり、そういう場所に呼ばれるのが嫌で嫌で仕方がないから人には黙っている、ということなのだが。
そして今。
人には見えないものを見るその視力は、すぐ目の前のエーファの墓の上に、非日常的に透き通った銀色の美しい毛並みを、はっきりと捉えていた。
ケヴィンは尻餅をついたままじたばたして、少し後ずさる。
「えっ、えっ。嘘っすよね……あんたが人狼だったんすか……!?」
墓石の上にゆったりと寝そべって、その銀色の狼は、笑うように目を細めた。
『こんにちは、初めまして。よかった、間に合ったわね。見える人はあなたが初めてよ』
「……あー、どうも、こんにちはっす」
彼女がゆったりと言ったので、ケヴィンは何とか体勢を立て直し、その場に座った。はっきり目に見えるとは言え、これまで別に取り憑かれたこともない。死者は無害なものであり、大抵の場合、彼らはただ話を聞いてほしいだけだ。だから見えてしまった場合、それくらいはしてやることにしていた。
エーファとおぼしき狼は、人間くさい仕草で首をかしげた。
『まず少し、聞きたいことがあるわ。……私、あなたのことを知らないのだけど、あなた、私のお墓に何しに来たの?』
「……あ」
ケヴィンは眉を寄せる。
確かに彼女本人とケヴィンとの間に、別に直接の面識はなかった。彼女を診たアントンからエーミールに渡された処方箋を、自分が受け取って他の町の問屋に持って行き、買ってきた薬をエーミールに渡すだけの関係だ。……そして無論、先程心の中で呟いただけの言葉など彼女に聞こえていたはずもない。どう答えたものかと悩んで、何とか口に出していく。
「……あんたの飲んでた薬を届けていた者っす。……そして、間違った薬をわざと届けた者でもあります」
言い終えてすぐ、平伏する。
「本当にすみませんっした! 謝って許してもらえるような話じゃないのはわかってるっすけど! どんなに恨まれても文句は言えませんけど……!」
……死者は能弁だが無害だ。彼女が自分に手を出せないとわかりながら謝るのは本当に卑怯だと思ったが、それ以上にできることが何もなかった。地面に額を擦り付ける。
『……ああ、そんなにしないで、どうか顔を上げて。私は別に怒ってないわ』
身を乗り出してきたらしい半透明の狼の舌が、ケヴィンの頭をすり抜けて目の前を通る。たしたし、と地面を叩くような仕草をした前足も、彼に触れることはなかった。
「……そうっすか……?」
それでもやはり怒られた子供のような顔で、ケヴィンはようやく頭を上げる。
『ええ。……どっちみち、もう限界だったわ。私の身体は』
彼女は墓石の上に戻って丸くなると、前足に頭を預けて語り始めた。
──エーファが自分が人狼であることに気づいてしまったのは、まさにアロイスの遺体に直面したそのときだったのだそうだ。悲鳴を上げて崩れ落ちた彼女はその身の内で、初めて経験する衝動と戦っていた。未だかつて知らなかった種類の食欲だった。遺体に既に他の人狼の匂いがついていたことも、彼女にとっては悪い方に働いた。
蘇生処置を受けながら、生と死の間で、彼女は究極の選択を迫られた。
人狼として蘇生するのか。それとも人間として死ぬのか。
……彼女はぎりぎりのところで、その中間を選び取った。彼女の病状が長期にわたって回復も悪化もしなかったのはそのためだ。二つのあり方の間で特殊な均衡を保って、彼女は瀕死のまま生存していた。
『狼になったら、きっとあの子を食べてしまうと思ったの。あの人に似て美味しそうだ、と感じてしまうだろうと思った』
彼女はそう言った。
とはいえ結局のところ、彼女がどれを選んでも、エーミールはその一夜でほとんど全てを失うことにはなっただろう。選択肢があったからと言って何ができたわけでもなかった。それでも間違いではなかったと思う、と彼女は言う。
『私の存在はきっとあの子にとって負担でしかなかったけれど、それでも、あの子は生きることを諦めずにいてくれたから』
……だがそれから二年も経つと、彼女にとって、その均衡を保つことは少しずつ重荷になり始めた。人狼としての生命力が勝り始めたのだ。息子の知らないところで密かに自らを傷つけながら、彼女は必死にその状態を保っていた。
そしてケヴィンが薬をすり替え、薬の効力が弱まって諸々の不都合が出始めたとき、彼女はついに諦めた。命綱だった人狼としての力を全力で押さえ込み、人のままで死ぬことを選んだ。
『……あの子に本当の話はできなかった。伝えるのが、難しすぎたの』
生前のほとんどの時期は、衰弱していて声もまともに出せなかったらしい。それではこんな込み入った会話は、そうそうできるものではなかっただろう。しかもケヴィンの場合、最初に彼女が人狼だと気づいていたからその話を理解できるだけだ。ゼロから理解するには、頭のいいエーミールであってももっと遙かに時間がかかることだろう。
『でも、可哀想なことをしたわ。あの子はとても、苦しんでいた……』
彼女に薬を飲ませるか否かの最終的な判断を下したのはエーミールだった、と彼女は言った。それがつまりどういう決断なのかに気づいて、ケヴィンは顔を歪める。母親を見捨てる決断を、彼は自ら下したのだ。
「……いやそれは、あっしのせいっすよ。エーファさんのせいじゃない」
深々と頭を下げた。改めて自分のしたことを思い知り、殺されても文句は言えないほどの行いだった、と思う。
『そうね、怒ってはいないけど、まったく文句がないわけではないわ。あの子の苦しみを思えば食い殺してやりたいぐらいだけれど』
エーファは小さく喉の奥で唸ってみせる。ケヴィンは思わず少し後ずさった。すると彼女は少し表情を緩め、じっと彼を見た。
『でも、それはいいの。許してあげる。……その代わりね。あなたも旅をするのでしょう? だったらいつかどこかで、もしもあの子に会えたら、よろしく伝えてちょうだい。幸せでした、ありがとう、と』
「……」
それを聞くと、ケヴィンは少し目を逸らした。これほどの負い目があるのに頼みを聞いてやらないのは悪いとは思ったが、それは彼の信念にどうしても反していた。
「……あっしはそんな約束はしやせんよ。死んだ人間はもう二度と喋るべきじゃない。それはいい言葉でも悪い言葉でも、必ずや生者を縛ります。……でももしどうしても出会ってしまって、そういう話になってしまったら、そのときはもしかするとお伝えするかもしれない、とは言っておくっす」
するとエーファは、それまでずっと笑っているようだった目を、そこで初めて見開いた。やがて、ああ、と納得したような吐息を漏らす。
『……そうね、そうだったわ。あの子は強い子だもの、きっともう、私の言葉なんて要らないでしょう。大切なお友だちだっているのだから、そう、きっと幸せに生きている』
そして彼女は、どこか遠くにいる彼の香りを辿ろうとするように立ち上がり、背中をそらして鼻を上げて。
『……ああ、もう時間がないわ。ごめんなさい、ありがとう。……さよなら』
彼女はそうして、幸せそうにまた目を細めて──
夕焼けの空に溶けて、消えてしまった。
まるで最初から何も起こらなかったかのように、そこには彼女の墓石だけが残っていた。