avenge

13-3.


 長く入院した病院から、ようやくジルヴェスターが自らの町に戻れたのは、春も半ばを過ぎた頃だった。身体の衰弱に加えて重い心労を抱え込んでしまい、まともに食事も喉を通らず、苦しい入院生活を過ごした。早い段階で正気にこそ戻ったものの、逆になまじ現実を認識したせいで完全に心が折れて、言葉を発することも自分で動くこともろくになく、ただベッドに釘付けになっていたのだ。あのときの言葉通りずっと付き添ってくれたルドルフの献身的な看護がなければ、そのまま駄目になっていたかもしれなかった。
 エーミールからの動きはまだ、ほとんどないままだ。鉱山と商人たちの件が町の人々に知られた、というのだけは噂で聞いていたが、あそこに隠してあった書類の類が全て流出したのなら、本来その程度で済むはずもなかった。
 ……ただあのとき神父も医者もなくした町は、ひどく不便になっているはずだった。さぞかし寂れていることだろう──と、そう思っていたのだが。
「……これは……一体……」
「……すげえな、何だこりゃ」
 少しでも土がありそうなところには所狭しと咲き誇る、見渡す限りの黄色い花畑を見て、二人は思わず立ち尽くす。
「……おお。神父様にルドルフじゃないか! 帰ってきたのか!」
 通りすがりの肉屋のゲオルクが大きな声を上げたので、ぎょっとしてルドルフがジルヴェスターの前に出た。
「いやあ、神父様は随分やつれたな! まあ今は代理の神父さんがいてくれてるが、やっぱりこの町で神父様って言ったらあんただよ。戻ってきてくれてよかった!」
 豪快に笑いながら近づいてきたゲオルクは、ルドルフの肩をばんばん叩き、ジルヴェスターの顔を覗き込んだ。
「……あ? ……いやゲオルク、悪い、何がどうなってるんだかさっぱりだ」
 予想だにしなかった言葉をかけられて若干ジルヴェスターの腰が引けているのを見て、ルドルフが代わりに問う。
「ああ、そうだよな。いや、商人たちの件と鉱山の件がわかってから、みんなで話し合ったんだ。こんなことになってしまったが今からでも遅くない、アロイスの言ってたことをやろう、って」
「……っ!?」
 その名を聞いた途端、ジルヴェスターの身体がバランスを崩して、ルドルフにすがりついた。
「……旦那、無理するな。大丈夫か? どこか座るか?」
「おう、だったらとりあえずうち来るか? 狭いが椅子ぐらいは用意するぞ」
 ゲオルクはまた豪快に笑い、二人を連れて歩き出した。

 ゲオルクの家に到着して、またもや豪快なやり方で淹れたミルクティーを出される。零したものを拭いた布巾をゆすぎにゲオルクがキッチンに戻っている間に、二人は顔を見合わせた。
「……一体これは……何がどうなっているんだ」
「俺に聞くなよ、わかるわけねえだろ……」
 鉱山の件も商人たちの件も露見しているのに、なぜゲオルクが親切なのかわからない。町の人々にはもっと恨まれていていいはずだ。
「……胃が痛い……」
 ジルヴェスターはミルクティーをテーブルの中央に押しやり、口元を押さえてテーブルに伏した。その背中をさすってやるものの、正直に言ってルドルフも首をかしげざるを得ない。
 戻ってきたゲオルクはジルヴェスターの様子を見て、あれ、と声を漏らした。
「……神父様はまだそんなに具合が悪いのか?」
「いや……ただ、だいぶストレスに弱くなってるからな、少し大事にしてやってほしい」
「そうか。……あんたたち、知らないうちに随分仲が良くなったな?」
「まあ成り行きだが、半年も看病してればそうもなるもんだ」
「そういうもんか」
 そうしてゲオルクが語った話は、二人にとって青天の霹靂としか言いようのないものだった。
「──あれはアロイスが失踪する何日か前だったな。俺やシュテファンやハンスとニーナ、フランツ、マルティナ、他にも大勢……まあつまり、町の主立った動けそうな人間を集めて、あいつは『この先どうするか』の話をしたんだよ」
 あいつはあんたにも声をかけたんじゃないか、と問われて、ジルヴェスターは息を呑んで記憶を探った。
「……確かに呼ばれたかもしれない。……ああそうだ、そのときわたしは鉱山の件の交渉を詰めていて、それ以外のことは何も考えられなかった。だから、その集まりには参加できない、と答えた……」
「そうだろう。あいつがあんたを呼ばないなんてあり得ないからな」
 ゲオルクは頷くと、先を続ける。
「その席であいつは言った。鉱山はもう駄目だ、あんなことがあって危険なのはもちろんだし、多分他に掘れる鉱脈も残されていない。だけどこのままでは町そのものが寂れていってしまうから、何とかして俺たちで、他のやり方で町を守り立てていこうじゃないか、と」
「……!」
 ジルヴェスターの顔が急激に青ざめた。ルドルフが慌てて顔の前で手を振る。
「おい旦那、しっかりしろ」
「大丈夫か? まあ茶でも飲めよ、旨いぞ?」
 両手を握り込んで俯いてしまったジルヴェスターの前で、ゲオルクは呑気に自分の分のミルクティーを口にした。元々白いものの混じるあごひげに、更に白い部分が増える。
「……そしてあいつは、町中に花を植えよう、といった。幸か不幸か既に人が減りつつあって牧場や農地が余っているし、管理されていない花壇もたくさんある。まずはそこから始めよう、そして土地が足りなくなったら、町より南の野原を開拓していこう。種や果実を作物として収穫できるような花も植えて収入源にしながら、少しずつ他の町の人々を呼び込んでいこう、と。……俺たちはその話を、魅力的だと思った。俺が言ってもそうでもないだろうが、何しろあいつがそう話したんだ、わかるだろう?」
「……ああ、わかるぜ。あいつはそうだったよな。人に夢を見せることができる奴だった。しかも叶えることができる夢を」
 ルドルフは頷いた。彼はアロイスとの付き合いがそう長かったわけではないが、彼が紛れもなく町の中心人物であり、誰からも好かれていたことはよくわかっていた。そしてそれが、彼の持つ特殊な魅力に端を発していたことも。
「そうだ。あいつが言うんならできる、俺たちはそう思った。アロイスはそれから数日で、町のどこにどんな花をいつ植えるのか、季節の移り変わりに伴ってどこの景色がどんな風になるのか、詳細な計画とスケジュール表、地図を作って持ってきた。今は冬だから次の春から始めよう、ってな」
 それが確か、失踪する前の晩だ、とゲオルクは言う。
「……だがそれがあんなことになっちまってな。鉱山の件でジルを止められなかった、これ以上あの山を掘ったらまた死人が出てしまう、ジルが人殺しになってしまう、とあいつはひどく気にしていたから、あの夜、無理に鉱山の方まで行ったんだろう……。ともかくそれで俺たちもさすがに……意気消沈しちまってな、その年は結局、種も買えずじまいだった」
「……そりゃそうだよな。あいつが抜けた穴は大きかったよな……」
 眼鏡の奥の目にうっすらと涙を浮かべて震えているジルヴェスターの背中をまたさすってやりながら、ルドルフは目を伏せた。
「……さすがにしばらくの間、誰も動き出せなかった。だがそうこうしているうちに物価が上がってきてな、やがて、そんな大量の種を買うような余裕は誰にもなくなっちまった。……その辺のことはあんたらの方が詳しいだろう、うん?」
「……」
 ゲオルクは二人の顔を覗き込むようにした。
 ジルヴェスターは苦しげに顔を上げ、ひとつひとつ押し出すように言葉を紡ぐ。
「……わかっている、言い訳をするつもりはない。……あの頃していたことはそれだけではないが……どれも到底許されることではなかった」
「……他にもあるのか……いや、細かくは聞かんぞ、許せなくなったら困るからな」
 ゲオルクはがしがしと頭を掻く。
「……だがその年にできなくとも、俺たちは覚えていた。アロイスの言葉を。あいつが、やろう、と言ったことを。今回、鉱山の話がわかって、商人の連中が全員這いつくばって謝りながら事情を話してくれてな、お詫びにこれからはもっとずっと安くものを売りに来る、と言ったとき……誰からともなく、それならこれから花を植えよう、と言い出した。アロイスはもういないが、あいつが残した計画書は全部残っている。それならきっと、俺たちにもできるはずだ、と」
 ちょうど同じような季節だったしな、とゲオルクは笑った。窓の外を指差して言う。
「……その手始めがあの菜の花畑だよ。なかなか悪くない景色だったろう?」
「……う、っ……!」
 とうとうジルヴェスターは耐えきれなくなって眼鏡を外し、両手で顔を覆った。ぼやけた視界が更に滲み、熱い滴が次から次へとこぼれ落ちる。
 ……あのとき、あの悲しいすれ違いの夜。
 本当に相手の言うことを聞く耳を持たなかったのは、アロイスではなかったのだと思い知った。
 顔を伏せた彼の頭の上で、ルドルフがゲオルクに賞賛の言葉を伝えるのが聞こえた。
「……ああ、見事な景色だったぜ。驚いた。これから他にも、あちこちに色んな花が咲くようにしていくんだな?」
「そうだ。それぞれの担当場所や季節も十分な余裕を持って決めてある。まあ今年は全部完璧にはいかないかも知れんが、そのうちうまくいくだろう。何しろアロイスの計画だからな」
 その賛辞に楽天的に笑いながら、ゲオルクはカップを空にした。
「商人たちにも噂を広めてもらってるんだ。あの廃鉱山の町で、それは綺麗な花畑を見られるらしい、ってな。しばらく『よそ者に不親切な町だ』って悪い噂が広まっちまってたからまだあまり人は来ないが、これもまあ、ぼちぼちってとこだろう。じっくりやるさ」
「……悪かった。そいつは俺の責任だな」
 ルドルフは眉を寄せてゲオルクを見たが、ゲオルクの表情は彼を責めるものではなかった。
「気にするなとは言わんぞ。だが、そのことについてももうみんなで話し合ってある。……誰もあんたらが私利私欲で鉱山をどうにかしようとしていたとは思ってない。人が減って潰れっちまった学校の校舎を、自分で改装して屋敷にしてるような神父様が、自分の都合のために悪事を働いていたなんて、誰も信じちゃいない」
「……っ!」
 涙でぐちゃぐちゃになった顔を弾かれたように上げて、ジルヴェスターはゲオルクの顔を見た。彼はまだ、笑っていた。
「……何よりみんなが思ったんだ。アロイスがここにいれば絶対に、『ジルを許してやってくれ』って言うってな。だったら俺たちがあんたを責めたんじゃ、あいつの遺志にも背いちまうだろう」
「……あ、あ……!」
 ゲオルクが見せる、どこか生前のアロイスに似た快活さを宿した笑顔の前に、もうどうしようもなく泣き崩れるジルヴェスターの背中を見て──
 あの日以来ずっと彼を支配していた亡霊がついにどこかに去って行くのを、ルドルフは知った。
 しばらく身も世もなく号泣していたジルヴェスターの泣き声が、それでも少しずつ小さくなって、やがて小さな嗚咽に収束していく。やがてようやく眼鏡をかけ直した彼と、その肩を支えるルドルフをまっすぐに見て、ゲオルクは言った。
「……まあ、だから、そういうわけだ。あんたたちが何をしたのかはみんなが知ってる。中には多少許せないことがあった奴もいるだろう。だがもうみんなで決めた、俺たちはあんたたちを受け入れる。だから」
 彼はそこで一度、深く息を吸い直す。
「少しでも申し訳ないと思うなら、あんたらはこれからも俺たちの町のために生きろ。アロイスが守ろうとしたこの町のために。やってもらうことはたくさんあるぞ、あんたらが長く留守をするからあれこれ山積みだ」
「……おう」
 低く答えたルドルフの隣で。
「……ああ、もちろんだ。是非ともやらせてもらう。ああ、やらせてもらうとも……!」
 深い痛みに耐えるような顔で、それでもまっすぐにゲオルクを見つめ返して、ジルヴェスターは渾身の笑顔を作った。
「……ああ、何てことだ、おのれアロイス……いつだってお前は、死んですらも、いつもわたしの先を行くんだな……!」