avenge

2-1.


 これからわたしのことはお父様と呼びなさい、とその男は言った。

 ◆

 ここ三年ほどのエーミールにとって、朝はあまり輝かしいものとは言えなかった。慎ましくも停滞した一日がまた変わりなく始まると思えば、朝日を眺めるとどちらかといえばうんざりしていた。
 数日前に、それが少し変わった。そして今日は、もっと。
 いつもの通り夜明けに起きて、教会に行って清掃と朝の礼拝に参加し、帰って洗濯をし、母と自分の朝食を用意していても、どこか気分が浮き立っていた。
 ほとんど意識していなかったが、買い物から戻ったらいつもの五割増しの荷物を持っていた。さすがに少し真顔になって、保存の利くものの一部は涼しい床下にしまうことにする。
 こんなにも時間の過ぎるのが待ち遠しいのはいつ以来だろう。幼い頃、父が翌日森に連れていくと約束をしてくれた日は、もしかするとこんな風だっただろうか。いや、それより嬉しいかもしれない。何しろ気を許せる友人が遊びに来てくれるのだから。
 ……冷静に考えると少し不思議な気もする。あれほどに当たり前でない出会い方をして、一度は襲ってきすらした相手を、自分がこうも大切に思えるとは。
 けれど昨日彼本人にも言った通り、何か事情を抱えて必死になっているように見えたのだ。もっと言うなら、少し泣きそうなようにすら思えた。火かき棒を突きつけられたときは肝を冷やしたが、その瞬間にあの青灰色の目によぎった安堵の色は、見間違いではなかったと思う。彼の方にも元々自分を傷つけるつもりまではなかったからだ──と解釈しているが、まあ当たらずといえども遠からず、というところだろうか。実際、食事を取ってからは普通に話ができていたのだから。
(食事、か)
 数日絶食していたから急にこれ以上食べるのが怖い、と言っていたが、本当にあれで足りたのだろうか。普通の一人ぶんの食事に比べたら半分くらいの量だったと思う。残りの卵を全部持たせたとはいえ、来たらまた腹を空かせているのかもしれない。もしそうなら、さっきしまい込んだぶんの食料も出してあげよう、と思う。
 与えられた課題の本を読み進めるうち、昼が過ぎた。
 母の部屋とリビングルーム、キッチン、自室を軽く掃除する。母が呼んだらすぐに駆けつけられるよう、リビングで本を広げた。少し経ってからしばらくページをめくっていないことに気づき、何度か頭を振って集中しようとしたものの、どうにも窓の外ばかりに意識が行き、たまに人影が通るたび目で追っていた。
 夕刻になった。
 まだ、来るかもしれない、という望みが捨てきれなかった。リビングに通じるドアを開けたまま夕食の準備をし、明暗差のせいで既にほとんど見えない外の通りに時々目を凝らした。
 ……ベッドに入る頃にはさすがに、今日への望みは捨てていた。きっと明日は来てくれるだろうと何度も自分に言い聞かせた。思った以上に落胆している心を少し持て余して、いつもより長く、寝付けずにベッドの中で天井を見つめていた。
 ──だが、その次の日も彼は来なかったので。
 めったにないことだがエーミールは、夕食の準備を終えるまでの間に、気が散って手元が狂い、二回ほど食器を床に落とした。割れる心配のない木製の食器だったのがせめてもの幸いだった。

 ……そのようなわけで、更にその翌日。
 籠に山盛りの色とりどりのベリーを手に、ヤンがエーミールの家のドアノッカーを鳴らそうとしたそのとき。
 伸ばしかけたその手のすぐ先で、木製の重たいドアが、弾けるような勢いで外に開いた。
「遅い!」
 声と同時に、頭のてっぺんにエーミールの平手が降ってくる。
「いっ……!?」
 痛いと声をあげる間もあらばこそ、猛烈な勢いで手をひっ掴まれて中に引きずり込まれる。真っ赤なベリーがいくつかこぼれたのを目で追ったが、とたんにすごい音を立ててドアが閉められたのを見て思わず目を瞑った。息まで止まる。体をできるだけ縮めて瞬間的に外界を拒絶する。
 ……ややあって、遠慮がちに肩を揺すぶられた。申し訳なさそうな顔でエーミールが覗き込んでくる。
「……ごめん、驚かせた?」
「……死ぬかと思った」
 実際、本当に死にそうになった時とはまた別の意味で、心臓が止まりそうな気がした。
「さすがに何なんだよ、寿命が縮んだぞ……」
「……だって、君がなかなか来てくれないから」
「仕方ないだろ、起きたら昨日の夕方だったんだから」
 早めに起きてなにかしら礼を準備しようと思っていたのに、気づいたら夕方だった。眠りについたときよりはぎりぎりやや明るいくらいの時間帯だったと思うが、それから森を探索するには少々難があったのだ。
 だからそのまま夜を迎え、明るくなるのを待ってあちこちを探し回り、なんとか籠を満たす程度のものを用意してここまで来たら、またおおよそ昼頃になっていたのだった。
「昨日の夕方……?」
エーミールは首をかしげ、自分の結論を疑ったのか、更に指を折って数える。
「……えっ、二日も寝てたの?」
「二日!?」
 聞いて、目を剥いた。
「いやわかんねえ、俺は夕方に寝て夕方に目が覚めたから、てっきり一日経ったんだと……」
「君が前にうちに来たのはさきおとといだよ?」
「ほんとかよ……」
 思わず天を仰ぐ。
 寝て起きてみたらかなり体が楽になった、とは感じたが、そんなに長時間眠っていたとは思わなかった。もしあの翌日から待っていたというのなら、それは今日までずいぶん長く感じたことだろう。
「そっか、そりゃ待たせて悪かった」
 エーミールは首を振る。
「ううん、寝てたなら仕方ないよ。……もしかして、調子悪かったの?」
「いや、今はだいたい大丈夫だ」
「そう? ……あ、とりあえず入って入って」
 座り込んでしまっていたヤンを助け起こして、手を引いたままエーミールはリビングに入った。
「お腹空いてるでしょ、なにか用意するから」
 ヤンに椅子を勧めると、引き留める暇もなくエーミールはキッチンに駆け込んでいく。ヤンはベリーの籠をテーブルに置き、落ち着かないな、と思いながら周囲を見回した。
 この間──エーミールがいうにはさきおととい、自分にはあまりにも余裕がなくて、この場所のことはほとんど認識していなかった。照明は今は点けられておらず、通りに面した窓からの自然光だけで照らされた室内はやや薄暗い。その窓の下には草花模様の長椅子があり、一冊の分厚い本が置かれていた。
 目を凝らしたものの、タイトルは読み取ることができない。自分が読み書きできる言語とどことなく似てはいるが、知らない言語だ。となると、宗教か魔術あたりの難解な書物、ということになるだろうか。どちらだとしてもエーミールにはそぐわない気がして首を捻る。装飾から見れば、宗教書の方があり得そうではあった。
 本から目を離して、また周囲を見渡す。入ってきたドアが正面にあり、左に向かって上る階段が見える。背後を振り返ればキッチンを含めてドアが二つあり、その左の外壁近くに、小さな飾り棚がひとつ見えた。
 首を巡らせる。席から左側、中央に暖炉を据えた壁の左端に、少し雰囲気の違うドアがもうひとつ。ここだけは奥に開くようだ。暖炉に目を移すと、先日ヤンが手にしていた火かき棒が、何事もなかったかのように専用の金具にかかっているのが見える。暖炉のマントルピースには聖母の像があった。
 ……見る限り普通の部屋だったが、ただひとつ気になったのは、エーミール以外の人間が室内で動いていそうな雰囲気がない気がする、ということだった。うまく言葉にはできない感覚だが、気配や匂いがないのだ。少なくとも母親は家にいるはずだと思ったが、その母親にエーミールが食事を用意してやっているということは、やはりなにか事情があるのだろう。
 キッチンのドアが開いた。エーミールの手には湯気をあげる皿が二枚。片方に茹でた太いソーセージが十本ほど、もう片方には半熟のスクランブルエッグがこんもりと載っている。それをテーブルに置くと、彼はぱたぱたとキッチンに戻り、スライスした黒パンがどっさり載った皿と調味料、食器、水差しを持って出てきた。
「お待たせ」
「……おう」
 これはいったい何人で食べるのか、と思わないでもなかったが、まあ聞くまでもなく二人なのだろう。
「あ、後でいいけど、これな」
 席についたエーミールにベリーの入った籠を差し出すと、彼は目を丸くした。
「これだけ摘むの大変だったでしょ、ありがとう。後で食べようね」
「ああ」
 黒パンにスクランブルエッグを載せ、エーミールが差し出してくる。小さく礼を言って受け取り、こぼれそうになった卵をとっさに啜って、パンをかじった。エーミールが自分の分も用意してかぶりつく。何の疑いもなく、自分が彼よりも先に食物を口に運んだことに気づいて、ヤンは思わず小さく笑った。
「……? どうしたの? なんか変な味した?」
 エーミールが首をかしげる。
「いや、そんなことない、美味いよ。……はは、お前、すごいな」
「? 何が?」
「お前がいてくれてよかった、ってことだ、わかんねえだろうけど」
 あの島でのあの夜──そこから逃げ出してここに辿り着いたときは、そもそも食事そのものがかなり怖かったし、人と食卓を囲みたいとも、それができるとも思わなかった。
 なのにこんなにあっさりと、楽しいとか美味しいとか感じている。自分が思っていた以上に自分は現金な生き物だと思ったし、そうできているのはひとえに、どうしてかすべてを許してくれているエーミールのお陰だと思えた。
「そう? 何だかわからないけど、役に立ったならよかったよ。──たくさん食べてって、まだあるから」
「いや、そこまでは……」
「あ、そう? でも日持ちしないから、食べられるだけ食べてってくれると嬉しいな」
 もちろん僕も食べるけど、と口の端に卵をつけてエーミールが笑う。
 やがてほとんど皿を空にして、少し長い昼食が終わった。
「……さて、ちょっと遅くなっちゃったけど、そろそろ……」
 名残惜しそうにエーミールが立ち上がる。頷いて、ヤンも立ち上がった。
「ああ、俺も今日はもう帰るよ。母ちゃんほっとかせて悪かったな、気にしてるのそれだろ?」
「あ、うん、……でも僕が勝手にしたことだから、気にしないで」
 エーミールはそうは言いながらも、少し後ろめたそうに目を伏せる。
「もう少しお前の都合のいい時間に来たらよかったよな。次は少し考えるよ……まあ、俺時計持ってないから、そんなに正確には来られないけどな」
 寝過ごすかもしれないし、と笑う。エーミールは期待と不安の入り交じった目でヤンを見た。
「……また、来てくれるの? 今日ほどはご飯出せないかもしれないけど、大丈夫?」
「いや、そもそも飯食いに来てるわけじゃねえって。……いいんだろ、遊びに来ても?」
「! ……来てくれるなら、嬉しいよ!」
 エーミールが喜びを溢れさせる。
「わかった、じゃあまた、えーと、起きてたら明日な」
「うん!」
 笑顔で手を振って、エーミールはヤンを送り出した。