avenge

2-2.


 ヤンが認識している限りでは、その次の日。
 日が傾きかけた頃にエーミールの家のドアをノックすると、「はい」と答える声が聞こえて、ややあって鍵の回る音がした。
「よう」
「いらっしゃい、今日も来てくれたんだね」
 招き入れるエーミールは穏やかだが、ヤンはふと自分の時間感覚に不安を覚えた。
「……今日はあれか、昨日の次の日でいいのか?」
「あはは、何言ってるの。何となくわかるけど。うん、昨日も来てくれてたよ」
「……そうか、よかった」
 何しろ自分の認識と実際の時間経過が違うというのは、だいぶぎょっとすることなので、そう聞いて安心する。彼に聞く以外では確認のしようがないのだった。他の人間とは話さないし、今はカレンダーも時計も持っていない──まあ持っていたとしても誰かが勝手に日にちを進めてくれるわけではないので、現状で特に役には立たないが。
 エーミールは先に立ってリビングに入ろうとしつつ、一瞬だけ気がかりそうにヤンを見た。
「……来る途中、誰かに会ったりした?」
「いや、あんまり人も見かけなかったけど」
「そう。うん、だったらいいんだ」
 その言葉にヤンは少し首を傾げたが、エーミールがさっさと歩き出して中に入ってしまったので聞きそびれた。
 テーブルの上には削りかけの木片と木屑が展開されていた。鉛筆で引かれた下書きからすれば、木片から匙を削り出しているようだ。
「これ、仕事か?」
「いや……うーん、お小遣い稼ぎ、くらいかな? 雑貨屋のマルティナ小母さんが引き取ってくれるけど、特に頼まれてるものじゃないんだ」
 頼まれるほどいいものが作れてるわけじゃないしね、とエーミールは苦笑する。
「もう少し役に立つものが作れれば、とは思うんだけど。……でも、こういうのは自分でも使うからね。それを参考に、少し使いやすいように工夫したりもする。あとは少なくとも丁寧に頑丈に、とは思ってるかな」
 下に敷かれた茶色い布ごと作業現場を脇に寄せて、エーミールはヤンに席を勧めた。
「そうか。……ん、お前、普段何してるんだ? 割と家にいるよな?」
「あ、ちょっと待って」
 エーミールはキッチンに入って水差しを持ってくると、茶色い陶器のコップを並べ、薄く色づいた茶を注いだ。
「お待たせ。……うん、母さんがいるから、あまり長い時間家を空けられないんだ」
「やっぱりか。……病気なのか?」
 いるらしいのに姿も気配もしないので、薄々そうなのではないかと思っていた。エーミールは少し考え込む。
「うーん、病気……なのかな。ちょっと色々あって倒れてから、あちこち弱っちゃってね。最近は割と安定はしてるんだけど、手助けがないと歩いたりできないから、一人にしておくわけにはいかないんだよ」
「そうか……大変だな」
 ここまで見てきた限り、この家には父親も不在なのだろう。この部屋にエーミールの気配しかしないのは、家の中を動き回れるのが彼だけだからなのだ。
「うん、でも、倒れたときには心臓も停まってたっていうからね。生きてるだけマシだよ。具合がよければ話もできるし」
 エーミールは笑顔で話すが、
「……それは大変だったな……」
 想像もつかないがそれは、かなりの苦難であるように思えた。その気持ちがどうやら顔に出たらしく、エーミールが慌ててぱたぱたと手を振る。
「あっ、気にしないで気にしないで。今は神父様にも助けてもらってるから、それほど大変なことはないんだ。ただあまり長く外にいられないだけ。……まあ、同い年の子達が工房の見習いに入ったりしてるのを見ると、気は焦るんだけどね。うちじゃ聖書の勉強くらいしかできることないし」
「聖書の勉強?」
 昨日見た、長椅子の上の本のことを思い出した。あれもその関係だろうか。
「うん、神父様がね。君はよく主を敬ってお仕えする賢い子だから、頑張れるのなら上の学校にも行かせてあげよう、って……そうするといつか教会の仕事ができるようになる、って。まあ、本当にそうなるかどうかはわからないんだけど」
「そうなのか」
 ……ふと、なにかがこれまで見てきた印象と食い違ったような感覚を覚えた。しかしそれを捕まえ損ねて、ヤンは首を捻る。
「それより君は? 仕事……とかは、いや、しないか」
 が、いきなり割と心外なことを言われたので、あっという間に違和感はどこかに飛んでいった。
「何でだよ、してたよ」
「してたの!?」
「だから何でそこで驚くんだよ!?」
「あ、いやいやごめん。ちょっと勘違いしてたみたいだ。……どんな仕事?」
 問われて少し、言葉に詰まった。言葉を探し、何とか喉から押し出すようにして答える。
「……してた、つもりだったけど。……でも、そう思ってたのは俺の方だけだったのかもな。報酬を貰うとこまで、行ってないし……」
「ふうん……?」
 エーミールが少し心配げにする。また顔に出ていると気づいて取り繕おうとしたが、言葉を止められなかった。
「……騙されたんだ、多分」
「……」
 エーミールが深く息をついたのが聞こえた。かける言葉を探すような少しの間。
「……そうなんだ。ごめん、辛いこと聞いたみたいで」
「……いや。大丈夫だ」
 自分で言っておきながら、まるで「大丈夫」という声音ではなかった。エーミールも何を言っていいかわからないらしく、テーブルの上の手が意味もなく天板の木目をなぞっている。
 何か言おう、と口を開いたが。
「……俺のふるさとではだいたい十五で成人して、成人したら一度は外の世界に出るんだ。そのまま外に居つく奴もいるし、帰ってくる奴もいる。外に出る前はさ、めんどくさいなとは思ってたけど、そんなの普通にできるもんだとも思ってたんだ……」
 今度は逆に、勝手に言葉が出てきて止まらない。手が震えた。目を見開く。初めて訪れた港町で仕事を探して、雇われて、あの島に行って、それからのことが怒濤のように頭の中に蘇る。
 だめだ、それ以上考えてはいけない。
 そう思ったもののひび割れた心の隙間からは、その記憶と絶望が堰を切ったように溢れだして。
「……きっと最初から全部嘘だったんだ。……初めての、仕事だったのに」
 テーブルに突っ伏し、頭を抱えて天板に擦り付ける。コップが倒れたのに気づいたが、止める気にはならなかった。
「あ……」
 エーミールが困ったように声をあげ、柔らかい何かで、ヤンの手と髪を濡らした液体を拭いた。コップを退けて遠くに置き直したらしい、ただそれだけの音が天板を伝わって、思いもかけない強さで耳に突き刺さる。目を強く瞑って、すべてをやり過ごそうとする。
 ……躊躇うような足音が、ほんの数歩。
 壊れ物に恐る恐る触れるように、そっと頭を撫でられた。
 限りなく優しい重みが、外界を拒絶しようとした彼に触れている。
「……気になるだろうけど、今は無理して考えちゃいけない。今はきっとまだ準備が足りないよ。何かするとしてもそれは後でいいから、今はとにかく、傷を閉じよう」
 落ち着いた低い声が囁く。
「眠れるなら眠ればいいし、手を動かしていた方が楽ならそれでもいいけど。心配しなくていい、ここは大丈夫だよ。戦える体力が戻るまでは動かなくていい。じっとしていていいからね」
「……う……」
 その言葉を聞いているようで聞けていない。何一つ頭には入らない。……ただ、優しくされていることだけはわかる。
 頭に食い込みそうだった指の力が徐々に抜けていく。微睡むように意識が遠くなり始める。少しずつ息をするのが楽になって。
 ゆっくりゆっくりと頭を撫でていたエーミールの手が、やがてそっと離れていくのを感じた。足音が静かに遠ざかり、また静かに戻ってくる。
 眠ったわけではない。けれど少しは落ち着けた気がして顔を上げると、エーミールは先ほどと違う水差しを手にしていた。新しく持ってきたらしい飲み物を、ガラスのコップに注ぎ、
 ──紅い。
 あのときと同じように、紅い。
 血の気が引いた。頭の中が真っ白になった。
 誰かの狼狽した声を聞き、どこかをめちゃくちゃにぶつけたような気がした。

 ……気がつくと、ねぐらにしている梢の上にいた。
 体中がひどくだるかった。気分も真っ黒な泥のように重かった。
 なぜここにいるのだろうと思ったが、少しも思考が進まなかった。
 目を閉じる。
 眠れるわけでもないまま、身体の重みをすべて枝に預けて。