avenge
3-1.
いつか手放す光だとしても、それはあまりに輝かしくて。
◆
今はもう使っていない二階の寝室の鎧戸を開けて、月明かりに照らされた真っ黒な森を見た。
昼に見たときと変わらない場所に、星に紛れて微かにきらめく銀色を見て、ああ、と安堵する。
もし彼がこのままこの地を去ってしまうとしても、そうでないとしても、今できることなどそれしかなく。
せめて無事であってほしい、と祈るばかりだった。
もう二度と会うことがないとしても、元気でいてほしかった。
傷が癒えればきっと、彼はどこへでも行けるのだから。
──そう、今はそうでなくても、彼ならばきっと。
最初にその姿を見たのは、数日前の夜明けのことだった。
真夜中の森に出掛けて、町に帰る途中で夜が明け始めた。森の高い梢には地上よりも早く日が射して、時期によっては水分を含んだ枝がきらきら輝く。それを思い出して、つい振り返ったのだ。
ところがそこで、思っていたのとまるで違うものを見た。
やはりきらきら輝いていたが、それは生きていた。森の上空で体をくねらせて舞い、その度にきらめく欠片が落ちた。白鳥の、否、天使のような翼の生えた蛇のように見えた。
天使の翼を生やした蛇だなんてよく考えたら笑ってしまう組み合わせだが、そのときはただ、その大きさと美しさに、どうしようもなく目を奪われていた。
蛇はやがて、森で一番高い梢の中程に体を預けたようだった。体の大半は枝葉の中に隠れていたが、尾や翼の先が時折見えた。
気になって仕方がなかったが、あまり頻繁に森に出掛けているわけにもいかない身の上だった。今いるこの部屋の鎧戸を開ければ、あの森の高い木々が見えることに気づいて、毎日毎晩、隙あらば目を凝らして観察をしていた。かなり遠かったが、小さい頃に使っていた望遠鏡も引っ張り出してなんとか見ていた。
蛇は、ほとんど動かないようだった。
もしかして死んでしまったのかとも何度か思ったが、時々少しだけ反射の様子が変わったので、ああ生きているんだな、と思っていた。
そしてあの日、今日こそはあの木の根もとまで行って直接姿を確かめてこよう、と思った。早朝の教会での日課を終え、人目につかないよう気にしながら森まで向かう途中、また信じられないものを見た。
まだ手前の木々にも遮られていない距離だったから、蛇のいる梢から目はほとんど離していないはずだった。肉眼の視力にはまあまあ自信がある。遠くともそんな大きなものを見分け損ないはしない。
それなのに、ほんの瞬きひとつの間に。
そこには蛇の代わりに、青みがかった髪色の少年が一人、こちらを向いて気だるそうに座っていたのだ。
あまりびっくりしたのでとっさに物陰に隠れた。
少しして恐る恐るもう一度顔を出してみると、少年は緩慢な動きで、梢から這い降りようとしているところだった。間もなく姿が見えなくなった。判断に迷ったが、自分ももう少し森に近づいてみることにした。
五分ほど歩く途中、野兎やネズミ数匹とすれ違った。森の入り口付近で聞き耳を立てると、どうやらこちらに向かっている誰かがいるようだった。あの少年であるとは限らなかったが、このところ、ここから森に入る住民は多くはないのを知っていた。木こりたちは少し離れた別の入り口から入っていくし、街道に向かうならこの森は通らないのだ。
あの少年であることに賭けて、待ち伏せることにした。
とはいえ実際に少年がその場に来るまで、相当時間がかかったので、ひやひやするどころの話ではなかった。自分は本来、日中に家を空けてはいけないことになっている人間だ。このところ母の体調は安定しているが、それでも何かあったら取り返しがつかないし、そのとき自分が家にいなかったとなれば大問題だった。
森を抜けて現れたその姿を間近で見たとき、さすがに少し迷った覚えがある。
髪はばさばさに乱れて、針葉樹の枝や葉がいくつか絡まっていた。シャツは白くはあったがくたびれていたし、暗い青のズボンには少し濃い色の点がいくつか散っていた。他の場所で見かけたなら、浮浪者か、と思うだろう。しかし大儀そうに歩いていくその姿は間違いなく、さっき蛇のいたところに現れた少年だった。
……今思えばそのとき、彼が人に危害を加える存在かもしれない、と疑ってもよかったはずだと思う。町を襲うために町に向かっている、という可能性を思い付いてもよかったはずだ。だって彼は本当はあんなに大きな蛇なのだから、大人は無理でも子供一人ぐらいなら、ぺろりと食べてしまえるのかもしれない。
──けれどそれが、思考の片隅にも上らなかったのは。
結局のところ、とっくの昔に魅入られてしまっていた、ということだったのだろう。
のろのろ歩く彼を尾行するのはそれなりに骨だった。うっかりすると追い越しかねないし、彼以外の誰かに見つかりたくもなかったからだ。あまりにもやりにくすぎて、途中からむしろ楽しくなってきたくらいだった。
しばらくすると、どこに向かっているのかわかった。町の西にある市場だった。少年がポケットを探って嘆息するのを見て、自分も財布をあらためた。多少の買い物はできると確認してから後を追った。
卵売りのアンナ小母さんはいつも通りうつらうつらしていて、隣の屋台では肉屋のゲオルク小父さんが腕組みをして周囲を見張っていた。少年は市場の入り口にいる段階から、既に卵の大籠に釘付けになっていた。
今しかない、と思った。
何か肉類を買ってゲオルク小父さんの方の目を引き付ける手もあったが、結局もっと直接的な接触手段を選んだ。卵を手に取った少年の背後に滑り込み、盗みを阻止してそのまま家にまで連れ帰ったときは、自分でもあまりに大それた動きをしていて、途中で笑ってしまいそうだった。やればできるものだ。
火かき棒を突きつけてきたときの必死な表情を覚えている。周りの何事も認識できないほど必死で病人食をむさぼっていた姿も。次に会ったときにはやっと腹一杯食べさせてやれた。見返りなどいらなかった。元気になってくれればそれでよかったし、笑ってくれたらそれ以外の何もかもを許せる気さえした。
……なのにあのとき。彼が辛そうに事情を話して、テーブルに伏してしまったとき。
もっとあのままにさせておいてやればよかったのに、どうして自分は余計なことをしてしまったのだろう。
持ってきた茶を注いだ瞬間、ほんの一瞬、彼が猛烈な怯えの表情を浮かべたのが見えた。次の瞬間には玄関のドアにぶつかる音、破裂音、壁に弾力のあるものが当たるような音が立て続けに聞こえた。
驚いて立ち竦んでしまい、やっと玄関を見に行けたのは一分近くが経過した頃だったはずだ。幸い外には他の誰もおらず、玄関のドアも、それがぶつかった外壁も、目立つほどには傷ついていなかった。
すぐに階段を上がって、今いるこの部屋に来た。鎧戸を開け放ち、しばらく息を詰めて森の梢を見ていると、やがてきらめきと共に大きく枝が揺れ、周辺の鳥が大量に飛び出してくるのが見えた。一瞬周囲が暗くなるほどの鳥の群れに、町の方でもどよめきが起こっていたのを聞いた。
彼が遥か遠くに去ってしまったのではなかったことに安堵はしたものの、それから今まで一日半、彼が戻ることはなく。
「……ふふっ」
自嘲の笑みが零れた。
何が彼にとってそれほど恐ろしかったのかは、考えてはみたがよくわからない。けれど傷を閉じようと言いながら、ここは安全だと言いながら、まさにその自分こそがあのとき彼の生傷を押し開いたことだけは間違いなかった。
気をつけようがあったとは思えない。何なら彼にとってすら予想外だったのかもしれない。
けれども。
少なくとも不用意に刺激しないことくらいは、できたはずだったのに。
深く息を吐く。
何かひどいことがあったときは、無理に考えずやり過ごして、じっとしているべきだ──ただそれがどれほど正しくとも、今はそういうわけにはいかなかった。自分がしたこととしなかったことを等しく直視するしかなかった。
なぜならたとえ手が届かなくとも、どうにか目には見えるところに、今はまだ、彼がいるのだから。