avenge

4-1.


 だってこんなの、全部夢なんでしょう?

 ◆

 町外れまで全速力で飛び、人のいない路地の物陰に降りて、そこからは全力で走った。焦って二度ほど道を間違えたせいで、見覚えのあるドアにたどり着いた頃にはすっかり息が切れていた。体を半分に折ってしばらく息を整える。ドアは微動だにしない。当然だ、これほど日が経って、あんな風に待っていてくれるはずがない。
 そう思うと身が竦むような思いがして逃げ出したくなったが、今ここで立ち止まっていても何にもならない、と無理やり気持ちを奮い立たせた。
 ドアノッカーを引き、叩く。答えはない。
 もう何度か叩いて耳を澄まし、やはりなにも聞き取れなかった。
 いや、たまたま留守なのかもしれない。エーミールは長くは家を空けられないと言っていたから、どこか近くで待っていよう。
 そう思って離れようとし、そのくせ未練がましくリビングの窓を外から覗く。
 薄いカーテンを透かした向こう、テーブルの向こうに誰かが座っていた。
「…………」
 息が止まりそうになる。
 エーミールだった。窓を正面にし、テーブルの上に作業道具を広げて木を削っている。窓をノックしてみたが顔も上げない。小さいがよく切れそうなナイフだけが、薄暗い室内で動いている。
 俯いて奥歯を噛み締める。留守でないのなら逃げるわけにはいかない。
 もう一度だけ窓をノックしたが、やはりエーミールは反応しなかった。ならば何としてでも、と拳を固めてドアの前に立つ。
 その前に一度だけ、とドアノブを引いてみた。
 開いた。
「……」
 微妙に拳のやり場に困りつつ、ドアの中に滑り込む。リビングの入り口から様子を見ると、エーミールは完成品の匙とまだ削っていない木を、それぞれ壁のように左右に積み上げて座っていた。
「……エーミール」
 名前を呼ぶ。木を削る音以外の何の答えもない。
「エーミール、本当にすまなかったと思ってる。あのとき一瞬わけがわからなくなったんだ、何も言わずに飛び出して悪かった」
 そっと近づきながら謝るが、それでも何も答えない。
「……そのあとやっと頭がはっきりしたのが今朝だったんだよ、何度もこんなことばかりで本当に悪いと思ってる」
 エーミールは木匙を光にかざし、ためつすがめつしてもう少し削り、完成品の山に積む。次の木片を手に取ってナイフを当てる。よく見れば下書きすらないフリーハンドなのに、あっという間におおよその形を削り出して形を整えて。
「……悪かったと、思ってるから……せめて何か言えよ、頼むよ……」
 ただひたすらの無言に耐えかねて懇願する。それでもエーミールは何の反応もしない。また一本が完成して次の木片に手を伸ばして──
 ……いや。これは。
「……。おい?」
 その横顔に違和感を覚えた。姿勢を低くしてエーミールの顔を見上げてみる。その表情に怒りはなく、悲しみもなく、もちろん笑みもない。まったくの無表情だった。その目は手にある木片しか見ておらず、恐らく耳にも木を削る音以外の何も届いていない、そんな顔だった。
「……」
 どうしていいのかわからず立ち上がって、肩に手を伸ばした。軽く揺すぶってみると手が止まりはするものの、揺らすのをやめるとすぐ作業を再開する。
 ……それならば。
「なあ、おい」
 ナイフを握る右手の手首を掴み止める。想像以上の力でまだ削る動作をしようとするその手を、危険がないようそのまま少しだけ引き上げる──と、エーミールの反応は予想外のものだった。やっと外界を認識した両目が、右手首を握る手だけを見て、瞬時に恐怖と怯えの色に染まる。
「ひっ……あっ、違っ、待って、ごめんなさっ、これはそうじゃなくて……!」
 震え声で取り繕いながらエーミールの視線が、自分の手首を掴み止めている手の先を辿る。
 目が合った。
「……え?」
 エーミールはひどく不思議なものを見たような目で、輪郭を確かめるようにヤンの全身を見回した。そして最後にもう一度、その呆然とした視線がヤンの顔に戻ってくる。
「…………ヤン? え、なんで? だって今朝確かに見たのに……い、いなくなってたのに」
 混乱しきった顔で、エーミールが落ち着きなくきょろきょろと視線を左右に動かす。何と声をかけたものか戸惑って言葉を探しながら、ヤンはとりあえずまだ掴んだままだったエーミールの手からナイフを取り上げ、テーブルに置く。手の力はほとんど抜けていて抵抗はなかった。エーミールは唇を震わせて、いるわけないのに、そんなはずないのに、と繰り返していた。
 両肩に手を置き、自分の方に向き直らせる。
「あー……少なくとも今、俺はここにいる。それだけまず飲み込んでくれ」
「……はい。ヤンは、ここに、いる」
 信じられないような顔で復唱して。
 その言葉を追いかけるように、エーミールの両頬を涙が伝った。
「うわっ、落ち着け落ち着け大丈夫か!?」
 今度はこちらが慌ててしまう。エーミールは瞬きをして、手で涙を拭って、それすらも不思議そうに眺めてから、やっと言葉を探し当てる。
「……だ、だって……毎日確かめてた、西の森の真ん中の木に、いなくなってたから。とうとうどこかに行っちゃったんだと、思って。もう来ないんだと、思っ」
 息を詰まらせた。拭った分どころではない涙が溢れてきて、嗚咽する。ヤンはほとんど見たこともない他人の泣き顔に動揺しながら、一方でその言葉に納得してもいた。
「ああ……知ってたのか、お前、俺のこと」
 ……西の森の真ん中の木。それはたぶん、自分がねぐらにしていた木のことだ。
「うん……大きな、きれいな蛇……」
 その言葉を口にすると、涙に濡れたままエーミールはにっこりと笑った。
 何か様子がおかしい気もするが、さしあたってもう取り乱してはいなさそうだ。彼の肩から手を離す。隣の椅子を引き、斜めに腰掛けると、エーミールも少し椅子の角度を変えてヤンに向き合った。無造作にテーブルに置いた手が当たって、未加工の木片の山が崩れる。
「こうやって君と会えるようになるより何日か前に、僕、見たんだ。夜明けにどこかから飛んできたでしょう? きらきら光ってた。きれいだった……」
 エーミールはその光景を思い出しているのか、幸せな夢を見ているように微笑んでいた。
 ……本当はその夜明け、自分はまったくそれどころではなかったはずなのだが。自分が実際感じていることと、他人が自分を見て受ける印象とは、随分食い違うものだ。
「……ああ、確かにそうだ。でも、あれが俺だっていつから知ってたんだ? 俺、わかるようなことは何もしなかったろ」
「うん、あの日ね。どうしても近くで見たくて、森まで見に行こうとしたら、蛇が君になるのが見えたんだ。すごくびっくりしたけど……それだったら、話してみたいな、と思って」
「……そうか、直接見てたのか……」
 何もかも知った上で、エーミールはヤンに出会っていたのだった。
 あの日、自分を警戒させずにはおかなかった無防備な好意。あの立ち回り。……それはヤンの真の姿を知った上で、彼を悪いものではないはずだと信じていたからだったのだ。そこまで信用される理由が思い当たるわけではないが、少なくともエーミールの中ではそういうことになっていたのだろうと思う。
「ここからでも、頑張れば二階の窓から、あの梢が見えるんだ。毎日、ああ今日もあそこにいる、って確かめてた。……でも今朝は、様子が違って……だから、いなくなったんだと思って……」
 思い出したのか、エーミールの表情が歪む。唇を噛んで俯きそうになる。
「あーあーあーあー、いるから! 今ここにいるからな!」
 慌ててばたばたと手を振り、自分の存在を主張しながら、ふと思った。
 今のエーミールは数日前の自分に似ている。ぬかるみから抜け出そうとして、抜け出せなくて。
 ということは、
「……あー、何だ、ええと。眠れるなら眠っても……」
 一生懸命思い出しながら語りかけようとすると、エーミールは一つ瞬きをした。もう一度目を瞑ると軽く頭を振り、ふふ、と苦笑する。
「いや、大丈夫。……そうだよ。僕は手を動かしてた方が気が紛れるんだ。それで充分耐えられると思ってたのに、ああもう、君が急に来るから頭の中がぐちゃぐちゃだ、まったく」
 顔に手を当てて、ぐりぐりと目やこめかみを揉みほぐす。手を動かす、というのがさっきの作業のことを指しているのだと思い至って、ヤンは若干腰が引けるような気分になった。
「……気が紛れるとかそういう程度の話じゃなさそうだったぞ、あれ……」
「いや、ああしてると何も考えないから楽なんだよ。……さてそろそろ昼時かな、君も食べてくでしょ? 母さんのが先だけど」
 エーミールは掛け時計を見上げて立ち上がる。確かにそろそろ正午が近い。
「まだ聞きたい話もある。帰らないでいてくれるよね」
「ああ、もちろんだ」
 頷くと、エーミールは嬉しそうに笑ってキッチンに入った。間もなく出てくると、彼はリビングを横切って、玄関側に出ていこうとする。
「? ……あっちじゃないのか?」
 ヤンがキッチンの隣のドアを指さして問うと、エーミールは首をかしげて一瞬考えてから、ああ、と笑った。
「あのとき僕があのドアを見たからか。ううん、母さんの部屋はこっち、暖炉の裏だよ」
「……!」
 そのままエーミールが出て行くのを見送り、ヤンは息を詰めた。
 あのときのこともそれほどよく覚えてはいない。だが彼自身が今肯定した通り、間違いなくエーミールは、火かき棒を突きつけられたとき、キッチンのすぐ隣のドアを気にするように見た。
 何か母親より大事なものがそこにあるのか、あるいは意図的な行為か。今の口ぶりからすれば、どちらかというと後者のように思われた。
 ……エーミールは確かに自分に好意を向けてくれている。そこに嘘偽りがあるとは思わない。
 だが同時に、自分に見せている顔が彼のすべてではない──そんな気がした。