avenge
4-2.
午後いっぱい、いろいろな話をした。気づいたらすでに森の梢に戻っていたこと、数日はうつらうつらしていたが脱皮によってダメージを回復したらしいこと。最後に会ったときよりも今の方が調子がいいこと、……それから、『初めての仕事』で起こったこと。
エーミールは頷きながら聞き、時々は控えめな口調で質問を差し挟んだ。あんなにも不安にさせてしまったのだから、とヤンは可能な限り応えた。
話し終わる頃にはほとんど日が暮れていて、ああ、と息を吐きながらエーミールは立ち上がった。
「──ああ、なんだか夢みたいだ。晩も食べてく? たいしたものは用意できないけど」
「甘えていいなら。……まあ、何日か食わなくても支障ないんだけどな」
「そうなんだ……便利な体だね、脱皮もするし」
「お前それ好きだな……」
昼じゅうの話題のうちでもっともエーミールの食いつきがよかったのが脱皮の話で、彼は何度かヤンの腕の皮をつまんでみたりなどもしていた。この姿の身体の皮が剥けたわけではないとは言ったし、おそらく理解しているとは思うのだが。
「だってやっぱり不思議だよ。その姿に変わるところは見てたけど、あれもなんだか、気づいたら、って感じだったし」
「実は俺も割と、気づいたら変わってるって感じなんだよな……途中経過の感覚はあまりないんだ」
「そういうものなんだねえ……」
他愛もない話をしながら、エーミールは手早く夕食の支度をする。野菜が多めに入った、トマト味のスープと煮込み料理の中間のようなものに、薄切りの黒パンを添えた。
「先に母さんにあげてくるから食べてて……っていうと、ヤンが先に食べ終わっちゃいそうだな。待っててくれる?」
「ああ」
頷くと、エーミールはリビングを出て行く。行儀よく座っているのも何か落ち着かない気がし、ヤンは窓際の長椅子に移った。
窓の外は薄暗い。いつ見てもあまり人通りがないのは気になった。
「……」
そういえばエーミールが、二階の窓から森の梢が見えると言っていた。どのくらい見えるものなのだろう。そんなに無防備な場所にいた自覚がなかったが、もしかすると割と大勢に目撃されていたりするのかもしれない。夜になってしまうが後で見せてもらおう、と思った。抜け殻もあの場に残したままだ。
……毎日観察されたあげく、変身現場まで逐一見られていたと思うと、改めてなんだか恥ずかしくなってくる。ことさらに隠そうとしていた訳でもないが、そのばれ方は想定外だ。
そんなことを思って一人で居心地悪くなっていると、エーミールが戻ってきた。
「……どうしたの?」
「いや……何でもない……」
知らないうちに寝顔を毎晩じっと見られていたような気分になった、とは言えなかった。
夕食後、帰る前に、と二階に連れて行ってもらうと、少なくともほかの目撃者がいる可能性についてはほとんど杞憂だったことがわかった。
「この窓を開けてあっちの方に……ああ、月明かりが今ちょうどいい。見えるでしょ?」
必死で目を凝らしてみるが、そもそも森全部が黒い塊のように見えている。幾分上に出っ張った部分があることはわかるものの、一本一本の木の判別すらできなかった。
「……見えねえ」
「えっ」
エーミールが心外そうな顔をして、ヤンを押しのけて窓の前に立つ。
「あそこの三本並んでるところの真ん中の、一番高い木だけど……そうか、君がいないから見づらいのかな。夜でもきらきら光って見えてたんだけど」
どこかから小さな手持ちの望遠鏡を出して、エーミールは一度自分で覗いて確かめる。
「うん、何かあるのはわかるけどあんまりよく見えないな」
「……いやそういう問題ですらない……お前どういう目してるんだ……」
渡された望遠鏡を覗き込んでもほとんど見え方が変わらず、ヤンは呻いた。
「ヤンは目、悪いの? 夜はよく見えないとか、ある?」
「人並みだと思うけどな……」
少なくとも不便を感じたことはなかったのだが。
逆に枝の上から町を見たことを思い出す。あの中のどの家がここなのか、よく見れば判別できただろうか、と考える。……無理な気がする。
「うーん、そうか。そういうことだと、多分僕以外はそもそも見てないかもしれないね。僕もそんな細かいところまで見えてたわけじゃなかったし」
「そうか。……ならまあ、よかった」
「そうだね」
エーミールは笑うと窓を閉め、先に立って階段を降り始める。降りきったすぐ先に玄関が見えるな、と思った途端、エーミールの背中にぶつかりそうになった。彼が急に立ち止まったのだ。
「……あ、ごめん」
少し体を揺らして踏みとどまり、エーミールが肩越しに振り返る。少し顔色が暗く見えた。
「……どうした?」
「……ううん、なんでも」
あと数段残っている階段をまた降り始める。そのままエーミールは数歩歩いて、玄関のドアの前に立った。いつでもドアを押し開くことのできる場所。ドアノブに手をかける。
「──ヤン、今日はありがとう。本当に楽しかった」
ふわりと微笑む。
その笑顔がなぜか、異様に儚く見えて、ヤンは思わず足を止めた。
「……」
とっさに思考を巡らす。なぜか何かがまずい気がする。何か忘れていることがある。
エーミールは微笑んだまま、ヤンが立ち止まったことに不思議そうな顔もせずにそこにいた。
それはまるで、幸せな夢を見るような面持ちで。
ぞわり、と違和感が弾け、頭の中で何かが、ものすごい勢いで警鐘を鳴らした。
「……いややっぱ駄目だ、気が変わった。もう少しいる」
「……え?」
言うと、エーミールは驚いたように瞬きをする。
「いいけど、僕、もう寝るよ?」
「だったら泊めろ。……俺は帰る先も見えてねえんだから。そこの長椅子で充分だから」
「あ、うん、だったらいいけど……」
本当のところ、実際に外に出て帰り道がわからないことはないと思っていた。上から見れば、月明かりのある夜なら充分飛べるだろう。……しかし今夜は帰ってはいけない、そんな気がした。
エーミールはもうあまり口を開かず、ヤンのために毛布を持ってくると、手早く寝支度をして廊下の向こうに消えていった。母親と同じ部屋で寝るのだろう。
ヤンは暗い天井を見上げて先程のエーミールのことを考えていたが、それを続けていられたのはほんの数分だった。そういえば早朝から起きていたんだった、と納得しながら、眠りの淵に滑り落ちる。
……うっすらと瞼の向こうが明るくなった頃、とんとんとん、と階段を駆け上がる音と何かのきしむ音が聞こえてきた。身を起こすと、しばし間が空いて、階段を下りてくるゆっくりとした足音が続く。足音はリビングの入り口に差し掛かり──
「よう」
手を挙げてやった。
「!」
エーミールはその場で硬直した。
「……な、なんでここにいるの。やっぱりいなくなっちゃったんだなと思ってたのに」
ああやはり、と確信する。
「そのくだりは昨日やった!」
毛布を脇に除けると立ち上がって歩み寄り、真っ向からエーミールの目を見据えた。
「……そうだよなあ、そうなるような気がしたんだよ。お前、朝起きて、昨日のこと全部夢だと思ったんだろ。だから森を見に行った、蛇の俺はいなかった、がっかりして降りてきた、いまの足音はそういうことだろ?」
「! どうして……知ってるの?」
エーミールは狼狽してきょろきょろと目を動かす。説明は端折ることにした。どうせ自分でもよくわかっていない。
「わかんねえけどそんな気がした! ……あのな、俺は現実にここにいるんだよ。夢でも幻でもないんだよ。人を簡単に夢やら幻やらにできると思うな、お前がこれをちゃんと現実だってわかるまでは、たとえ迷惑がったってどこにも行ってやらないからな!」
勢いで押し切った。
「……」
エーミールはしばらく、きょとんとしていた。
が、やがてくすくすと笑いだした。
「……ああ、ありがとう、よくわかったよ。確かに君は現実だ。──そう、きっと全部幸せな夢だったんだな、と思って起きた。きっとあまりに悲しくてそんな夢を見たんだろうと。……まさかこっちが現実だったなんてびっくりだ」
「勝手に夢だったことにされちゃたまらねえよ」
「……ふふふ、そうだね、ごめん。……僕はこれから教会の掃除と礼拝に行ってくるけど、一時間ちょっとで戻るよ。よかったら寝てて、起こしちゃって悪かったね」
エーミールは部屋の壁にかかっていた帽子を手に取り、慌ただしく部屋を出ていく。
ヤンは大きく息をつき、安心感に任せて二度寝することにした。