avenge

5-1.


 だったら僕が君を守るよ。

 ◆

 ヤンが次に目を覚ましたのはエーミールが戻ってきたときだったが、
「ごめん遅くなった、ちょっとあれこれあるから適当になんかしてて」
 彼の目にちゃんと自分が映っていることを確認するのが精一杯だった。
 なぜなら。
「て……手伝うぞ……?」
「そう、じゃあこれ干してきて。昨日行った二階の部屋の南側にベランダがあって紐が張ってある」
 押しつけられた籠の中身は主に肌着や下着の類いで、そう多くはなかったが、勝手がわからないので時間を食った。戻るや否や、
「ついでにそれ洗うから脱いで。あとで代わりの服を用意する」
 シャツをほぼ問答無用で剥がされた。
「下も洗いたいけど、サイズが合うかわからないからちょっと保留しよう」
「いやちょっと待て……」
「待たない。臭いこそしないけど変な染みがついてるし。本当いうと最初見た日から結構気になってたんだから」
「ええー……」
 上半身裸でしばらくリビングにほったらかされたあと、
「うん、僕が去年まで着てたやつで大体合いそうかな。はいじゃあ下も脱いで、そっちにシャワーあるからそのまま浴びてきてね」
「こらやめっ、自分で脱ぐからちょっと待て!」
 ……そのようなわけで、エーミールがやり遂げた顔で額の汗を拭った頃には、日はもうそれなりに高く昇っていた。結局最初に洗濯物を干しに行ったくらいしか手伝えていない。リビングの床を軽く掃き掃除しながら、エーミールがうんうん、と頷く。
「やっと落ち着いた」
「落ち着かねえ!」
 ヤンは長椅子に突っ伏して、まだ濡れたままの頭を抱える。
「清潔は大事だよ? 病人がいるんだから」
「それはそうかもしれねえけど!」
「こら、大声出さない。母さんが起きるでしょ」
「……ううう」
 気分としてはほぼ、頭から尻尾までいきなりまるごと洗われたようなものだ。いや、体は自分で洗ったが。小さな田舎町の割に簡易水道が引かれているようで、かなり意外な思いをした。初めての仕事を受けた港町にはそんなものはなかった気がする。
「……そういや水、家まで引いてるんだな。びっくりした」
「うん。近くに大きな湖があるし、昔はもっと栄えてたから、こういうのを整備するお金もあったんだと思う。今は管理もできてるのかどうか怪しいけど」
 人が減ったからね、とエーミールは呟く。
「北に鉱山があったんだ。そこを掘っている頃はもっと町も賑やかだったみたいだよ。……でも、僕が生まれてからはあまり上手くいってなくて、そのうえ四年くらい前に大きな落盤事故があって、掘るのをやめたらしい」
 まあそんなに賑やかだった頃のことは、僕はよく知らないんだけどね、とエーミールは続けた。
「この辺、建物の割に人が通らないでしょう? その頃建った家が多いんだけど、今は大分空き家なんだよ」
「……それでか」
 なるほど、と頷く。人通りのない路地の理由がわかった。
 それどころかこれまで、この周辺だけではなく町のどこでも、人はまばらにしか見かけていなかった。複数人が集まっていたのは市場だけで、それも買い物客が多かったというわけではない気がする。
 ……エーミールには失礼だが、この町は終わりかけているのかもしれない、と思う。
「まあだから、水は信用しすぎないで。そこまで変なことはないと思うけど」
「わかった」
「うん、それじゃちょっと早いけど、そろそろ昼の支度をしようか」
 ぱん、と手を打ち合わせて、エーミールが立ち上がる。

「……さて」
 エーミールは先に母親に昼食を食べさせ、テーブルの上に自分たちの皿を並べた。オーブンで火を通した鶏肉にナイフを入れながら、少し改まった声を出す。
「これはちょっと町の恥だから言いたくないんだけど、夢でも幻でもなく確かに現実に存在するところの君が当面この辺りに留まってくれるなら、言っておかないといけないと思う。食べながらで構わないから聞いて」
 取り分けられた鶏肉に手を伸ばし、ヤンは首をかしげる。
「そこまで強調されると落ち着かないな……恥?」
 エーミールは眉を寄せて頷いた。
「うん。……あのね、この町はよそ者に厳しい。正確に言うと、町の人たちはよそ者のことを特に悪くは思っていないけど、目立つからすぐに噂になるし、そうするとよそ者に厳しい人たちに見つかることになる」
 自分も手元の皿に料理を取りながら、真面目な口調で言う。
「で、それでどうなるかというと、一日あたり結構すごい額の滞在税を取られる」
「げ」
 ヤンは思わず、口に運ぼうとしたフォークを止めた。
「はっきり言って、卵を買うお金もなかった君に払える額じゃない。滞在日数分だからなおさら。……そういうわけで、全力で逃げ回るつもりでなければ町で目立たない方がいいよ。申し訳ないけどそれを肩代わりしてあげるほどは、うちにも余裕はないし」
「……元々町に出ようって気はそんなになかったけど、恐ろしいこと言うな……」
「うん……」
 エーミールは溜め息をついた。
「たまたま機会があって聞いたんだけど、この近辺の村とかではもう結構前から悪い噂になってるみたいなんだ。だからなおさらよその人は来なくなるし、来ても珍しいからすぐに見つかっちゃう」
 彼はそのまま行儀悪く、フォークの先で鶏肉をほぐすでもなくもてあそぶ。
「……一人から高い額を取っても、それで来る人数が減ったらダメじゃないのか?」
「もちろんそうだよ。……町の人たちはよそ者が実際にいくら取られてるのかわかってないみたいだし、この件については今のところ解決する予定がない。だから注意して、この家に出入りするところもできるだけ見られないようにしてほしいんだ。窮屈な話で申し訳ないんだけど」
「お、おう……気をつける」
 頷いたところでふと気づく。
「……ってそれじゃ、今までは?」
 エーミールは転がしていた鶏肉を口に運び、飲み下してから答えた。
「市場で僕が君を連れ去ったのはみんなに見られてたからね、最初に会った次の日にルドルフが調べに来たよ。……あ、ルドルフってその、よそ者から税を取ってる張本人だけど。あまりまともな人間じゃないけど、どうも後ろ楯があるみたいであまり誰も文句が言えない。彼に何か言えるのは神父様ぐらいかな」
「げ……だ、大丈夫だったのか?」
 空中で止まっていたフォークを思わず下ろして、身を乗り出した。エーミールはそれを見ると、ふふ、と、ヤンが見たことのない人の悪い笑みを浮かべる。
「直接見られてなければ何とでもできるよ。それに今後も心配要らない、人間は一度ちゃんと探したと思ってる場所にはなかなか戻ってこない。自分で念入りに探したんなら尚更だ。……もし見られちゃったらそうだな、君に脅されて匿ってたことにでもしようか。そのときは窓から逃げて、あとはごまかすから」
「うへえ……」
 自分は何かとんでもない場所にいるのではないかという気がしてきて、ヤンは呻いた。その顔が面白かったのか、エーミールはくすくす笑う。
「まあ、ご飯の美味しくない話はこの辺にしておこう。今日はどうするの? 何かやりたいこと、ある?」
 ヤンは壁越しに、ねぐらにしていた枝があるだろう方角に目をやる。
「あー……何か外出るの嫌になってきたけど、一度森に戻ろうとは思ってる。脱け殻が置きっぱなしだからな、多少でもこっちから見えるんなら始末してきた方がいいだろ」
 脱け殻、という言葉に、エーミールがやはり反応した。
「……それ、僕すごく近くで見てみたいんだけど、どう考えても持って帰ってこないで森でどうにかするべきだよね……」
「あれは別にそんないいもんじゃねえから。……たぶん、何ヵ月かしたらまた脱ぐし」
 と応じて気づいたが、そういえば、イレギュラーな脱皮をしたあと、脱皮周期はどうなるものなのか知らなかった。普段通りならば最近は、おおよそ三ヶ月に一度ほどになるのだが。
「今回のは適当に森に埋めるつもりだけど、問題ねえかな」
「大丈夫だと思うよ。最近はあまりあっちの方に入る人がいないから。……ああ、でも、念のため気をつけてね。あの森は最近、人狼が出るって噂がある」
「……は? 人狼?」
 思いもよらない単語に、聞き返す。そういう種族も存在するらしいとは聞いていたが、これまで自分が暮らしてきた場所にはいなかった。ろくに知らないのが顔に出たのだろう、エーミールが説明を加える。
「うん。狼になる人間、もしくは人間になる狼。時々徒党を組んで、人を襲って食べることがあるって言われてる。僕が知ってる限りこの辺では出たことないけど、近くの町や村に出たって噂話はよく聞くね。小さな村なら全滅するぐらいの被害が出ることもあるみたいだ」
「……そうなのか」
 それは恐らく自分が蛇であるのと同じように、自由に人と狼の姿を行き来する存在なのだろうと思う。
 人は我らの友である、とヤンの故郷の大人たちは言っていた。故郷に残っている以上、人里で長く暮らすことを選ばなかった大人ばかりだったはずなのに、それでもそう言っていた。
 だが同じ人ならぬモノでも、人狼たちにとってはそうではないのだ。
 それはどんな気持ちなのだろう、と思考が逸れ始めたところで、エーミールが呟いた。
「……まあもっとも、森に出るっていうのは僕には信じられないかな。本当に人狼が人間を食べ物だと思っているなら、森になんているはずがない。そんな人の少ない場所にはね」
 顎の前に両手の指を組み合わせて、薄い笑みを浮かべる。思いのほか冷たい声が囁いた。
「そんな風に人を食い物にするモノがもしもいるなら、彼らは人の群れの中にいるに決まっているよ」