avenge

5-2.


 人目につかないことを昨日以上に意識して、物陰で本来の姿へと変化し、できる限り高空を飛ぶ。元の梢に戻ってみると、抜け殻はいくつもの断片にちぎれ、大分足りなくなっていた。どうやらいくつかは風に飛ばされたようだ。あるいは鳥が巣材に持って行ったのか。
 これだと始末するというほどでもないな、と思いながら枝に立ち、見える範囲の分を拾い集めた。ほどなく作業を終え、せっかく高所にいるので、周囲を見回すことにする。
 八割方は針葉樹らしい森が、緩く傾斜しながら広がっていた。左手前方、北の方に見える山が、エーミールの言っていた元鉱山だろう。鉱脈があるということは火山だった時期があるはずだ。自分も火山地帯で育ったのでなんとなく懐かしい気もしたが、どうもすでに火山としては活動していない山のようだった。
 それから正面に目をやり、来た町を見た。やはりエーミールの家そのものを区別できる気はしない。何度も飛んで降りてをしているので、あの辺りか、とまではわかるのだが、似た建物が多いせいもあって余計に判断しづらかった。
 町の中で他に判別できるのは精々、煉瓦色の建物の塊から少し右に離れたところにある、教会と墓地らしきエリアくらいだ。鉱山での落盤事故を経て大幅に人が減ったという町は、確かに規模の割には随分静かそうに見えた。
 町の人々のことなど自分はほとんど知らないし見てもいないが、あまり明るく楽しく生きているとも思えない。しかも見た感じ近くに他の村や町もなく、街道からも離れている。よそ者など確かにほとんど来ないだろう。
 しかし町が黄昏の時期にあるとしても、なかでもエーミールの置かれた状況は、少々普通ではないように思えた。同年代は職人に弟子入りしている頃、と言っていたから自分と大差ない年齢だろうに、エーミールは一人で母親と家を守っているのだ。自分の種族はあまり親子関係が密ではなく、しかも兄弟が多いので想像がつきにくいのだが、病床の母親とふたりきりの暮らしというのは、恐らくかなり閉塞感のあるものだろう。
(……だから、なのかな)
 エーミールが『よそから来た人』を求めていた理由を、何となく理解した気がした。彼の状況を知っている町の誰か、では駄目なのだろう。町の外を知りたいということもあるだろうが、自分の背負っているものを知らない相手と話したい、という部分もあるに違いない。
 それならば自分もあまり深入りしないでいる方が、エーミールにとってはいいのだろうか、とも思う。……ただそうは言っても、既にかなり深入りしてしまっているかもしれない。そうそう他人には見せないだろう彼の表情を、既にいくつも目にしているのではないか。
 その中でも特に気になるのは、
 ──「ひっ……あっ、違っ、待って、ごめんなさっ、これはそうじゃなくて……!」
 昨日ヤンに手を捕まれたとき見せた、あの異様な怯えよう。
 あの瞬間のエーミールは間違いなく、自分のことを誰か他の存在と取り違えていたように見えた。知られてはまずい相手に現場を押さえられた、という風情だった。
 彼がとっさに手で覆おうとしたのは、木片を削る作業の現場だったように思う。そうだとしたらどうしてその作業を、一体誰から隠さなければならなかったのだろう。
 ……しばらくそのまま考えてみたが、エーミール以外の町の人間を彼の母親しか知らないのに、ここで考えてもわかるはずもなかった。
 ただ少なくとも確かにエーミールは、誰か他人と戦っているような気がした。それも恐らく、時には夢と現実の境目を見失ってしまいたくなるような、苦しい戦いを。
(……それなのにあいつ、俺には優しいんだよな……)
 エーミールが向けてくる笑顔を思い出す。今考えても、とても許されそうにないことまで許されている気がする。
 今朝がたは「お前は俺の母親か」と思うほどの勢いで世話を焼かれたが、それもまあ悪意ではないだろう。ちょっと怖かったが。
 ──エーミールが早くから自分を、ここへ落ちた蛇だと知っていたのはわかった。同時に彼を『町の外から来たもの』として認識してもいただろう。自分のような生き物を見たことはないようだから、物珍しさもあるかもしれない。その上でどうもそれ以上の好意を向けられている気もするが、そこは考えてもわかりそうにない。
 ではエーミールが今、その自分に求めているものは何だろう。……こんなに良くしてもらっているのだから、やれるものなら与えてやりたいが。
 ……またしばらく考え込んで、これも意味がないな、とかぶりを振った。本人に聞くなり本人の様子を見るなりして、徐々に知っていくしかない。
 頭を切り替えると木を滑り降りた。脱け殻はどこか近くに埋めることにする。それに加えて、今日はできれば手土産を持って帰りたいと思っていた。

 エーミールの家に戻った頃には夕刻になっていた。人の姿に戻るときに荷物を落として、慌てて拾って埃を払った。
 少し迷ったものの、ただいま、と声をかけると、少し間が空いてキッチンからエーミールが顔を出す。
「お帰り。……あのこれ、なんだかすごく……不思議だね?」
「おう……俺もそう思う」
 若干図々しいかと思ったのだが、不思議だと言いつつもエーミールがだいぶ嬉しそうなので、まあ悪いことではないようだと安心する。
「すごいな、人にお帰りなんて言ったの久しぶりだよ……」
 目を瞬きながらエーミールが少し俯く。その目がやや潤みつつあるのを見て、ヤンは慌てて背後に隠していた荷物を前に突き出した。
「……じ、実は今日はそれだけじゃなくて土産がある! これ!」
「……!」
 手の中には丸々太った山鳩が二羽。エーミールは目を丸くした。
「えっ、これヤンが獲ったの? すごいな、どうやって?」
 彼はそれを受け取ろうと手を伸ばす。ヤンは若干目を逸らした。
「……もっと褒めていいぞ、すごい苦しかったから」
「えっ」
 ……体調も回復したのだからそれぐらいは簡単だろう、と思っていたのだ。だが獲物をそのままの形で持って帰ろうと思うと、狩りはとんでもなく難しかった。自分の口と牙と喉の構造が獲物を奥に飲み込むようにだけできていることを、ヤンは今日しみじみ思い知った。
「……そういうわけでちょっと胃液とか唾液とかはついてるかもしれないから、気をつけて扱ってくれ」
「うわあ……」
 苦笑しながらエーミールは鳩を受け取った。
「これ、獲ってまだ間もないよね? 今日はもう晩ご飯の支度しちゃったんだけど、涼しいところなら置いとけると思うからそれでもいいかな」
「もちろん、任せる。……あと俺晩飯半分でいいや、何羽か失敗して呑んじゃったから」
「そ、そうなの……不思議なもんだね……」
 エーミールはヤンの喉から腹にかけてをしみじみと見る。
「……ああ、そういえばそうだな」
 日常行為なのでとりたてて疑問を持ったこともなかったが、確かに今、人の形でいるぶんに、腹の中に鳩が何羽か入っているという気がしない。いや、幼い頃に一度不思議に思って、大人たちに笑い飛ばされたことがあるような。
「まあ何だかよくわからねえけど、そういうもんなんだよ」
「そういうものなのかー……」
 エーミールは首をひねりながら鳩をキッチンに持って入り、軽く布で拭いて布袋に入れた。見ていると二階に続く階段の下、一日中日陰になっている場所に置きに行く。
「……ああ、それはそうと。二階の例の部屋、片付けたからよかったから使ってよ」
 戻ってきたエーミールは、階段の方を示しながら言った。
「元々僕の部屋だったから、普通に暮らすならそれほど暮らしにくいことはないと思う。ちょっと洗濯物干すときうるさいかもしれないけど、隣の客室は物置みたいになっちゃってるから。ごめんね」
「いや、ありがたいよ。……いいんだよな、甘えて?」
「もちろん。この辺の冬はまあまあ冷えるよ、人間じゃなくても森で過ごすのは無理だ」
 エーミールは笑ってから、ふと口元に手を当てる。
「甘えてもいいんだよね、はこっちの台詞だよ。そりゃ確かに、僕は君がいてくれたら嬉しいけど、もう君はどこにでも行けるでしょう?」
 まだそんなことを、とヤンは鼻を鳴らした。
「ああ、もう大丈夫だ。だからいつどこに行くかは俺が決めるんだよ、今はここにいたい」
「──そっか」
 エーミールは安心したように微笑んだ。
「うん、だったら……もしよかったら、母さんにも会ってほしい。今日は調子がいいから大丈夫だと思うし」
「……そうか、わかった」
「うん。じゃあ、支度するね」
 エーミールはリビングを横切り、キッチンに入る。その背中を目で追いかけて、ヤンは一つ大きく深呼吸をした。
 今日は調子がいいとは言っていたものの、エーミールの母の病状はそう容易いものではなさそうに思えていた。……心の準備をしなければ。