avenge

5-3.


 スライスしたパンと、わずかに具が姿を見せる野菜のポタージュスープのようなものを盆に載せ、エーミールがリビングから出る。
 階段の横、短い廊下の左側に、ドアがもう一つあった。
「北側だけどちょうど暖炉の裏で、夏は暑くないし、冬は暖房を入れるとここが一番あったかいんだ。僕も大抵はここで寝る」
 軽くノックをしたものの、エーミールは返事を待たずにドアを開ける。入るとそこは、まあまあ広い部屋だった。全体的に白っぽい印象だ。二台あるベッドは左右の壁にそれぞれくっつけられていて、間隔が広い。ベッドとベッドの間の壁には横に引く戸らしきものがあり、その少し手前に狭いテーブルが置かれていた。部屋の一番奥の壁には、夕方の弱い光の入る小さな窓がある。
 エーミールが左のベッドの横に歩み寄った。
「母さん、ご飯だよ」
 見るとそこには、彼とよく似た顔立ちの、痩せた女性が横になっていた。全体的に存在感の薄い彼女の、その細い目がゆっくりと瞬きをする。エーミールはベッド横のテーブルに食事の皿を置き、そっと彼女の身体を起こした。背中の後ろにクッションを挟んで身体を支える。
「……」
 何を言ったらいいものかと思っていろいろ考えていたのだが、女性の目はヤンの方を見ていなかった。彼女は緩慢な動作で、エーミールの頬に手を伸ばす。
「──」
 ほとんど聞こえないような声でエーミールに何か囁いた。エーミールは耳を寄せる。
「……うん、ちょっとね。……自分で食べられる?」
 小さく頷くのもやはりごくゆっくりだったが、エーミールは支えのついた板を脇から取って彼女の前に置き、食事の皿を載せた。スープにパンを浸してやり、近くにあった椅子を引き寄せて座る。立ったまま見ていたヤンに気づき、目線で奥のベッドに座るように促した。
 エーミールはしばらく口を開かず、女性が木匙でスープを掬って口に運ぶのを静かに眺めていた。一口がごく小さく、動作も遅いので恐ろしく時間が掛かる。半分ほど食べたところで、彼女がそっと、エーミールにまた何かを問いかけた。エーミールは頷いて笑う。
「うん、そう、友達。ヤンって言うんだ」
 彼女はゆっくりと、不思議そうな、だが嬉しそうな顔をした。力を込めて一言ずつ、言葉を発する。
「──この子を、よろ、しく」
 今度はヤンの耳にも、充分聞こえた。
 それから彼女は微笑もうとしたらしく、口の端が少し上がったが、途中で咳き込んで体を折った。エーミールがすっと手を伸ばしてその背をさする。何を言うべきか少し考えて、ヤンは頷き、少しゆっくりめに言った。
「……よろしく。エーミールにはたくさん助けてもらってる。すごくいい奴だよ」
「えっ、や、ちょっと」
 エーミールが照れ臭そうな笑みを浮かべた。

 やがて彼女は無事に皿を空にし、エーミールが差し出した液状の茶色い薬を飲んだ。何かあったら呼んで、と声をかけ、エーミールはヤンに手で合図をして部屋を出る。
「……呼ぶってどうやって? 大きな声なんか出ないだろ?」
「ああ。床に金属のお盆を置いてるから、テーブルの上のベルを落としてもらうことにしてる。……母さんが人に話しかけようとするの、久しぶりに見たよ。ヤンのこと気に入ったんだと思う。君が僕のことを優しそうに見てるから、友達かなと思ったんだって」
「……そうか」
 なんだか自分も、照れ臭いような気分になった。
「……母ちゃん、大変なんだな」
「うん」
 エーミールはキッチンに食器を持ち込んで手早く洗う。
「倒れてからいろいろ不自由になって、人とも会いたがらなくなって、どんどん、ね。……ヤンが話しかけてくれたら、もしかすると母さんも話がしたくなるかもしれないな。あのひと、僕相手だとどうせ聞いてくれると思って、あまり声を出さないから」
 それは──役に立てるのならやぶさかではない、とは思ったものの。
「……友達の母ちゃんと話すって、一体何を?」
 眉を寄せたヤンの顔を見て、エーミールは苦笑した。
「ああ、それもそうか……まあ、何か気が向いたら話してみてよ」
 エーミールはキッチンに戻ると、一旦脇にどけてあった大鍋を火にかけ直す。傍らにまな板を広げ、パンを数枚薄切りにして手早くまな板の粉を払うと、野菜の酢漬けを切り始めた。
 慣れた手つきが、母親の不在の長さを物語っているようだった。