avenge

6-1.


 その無残な姿を見て泣き崩れることができたなら、どれだけよかったことだろう。

 ◆

 やがてテーブルに夕食の皿が並び始めた。食器の置き場所を訊きながら、ヤンは必要なものを揃えていく。既に何度か食卓を囲んだときと同じく、キッチンのドアを背にヤンを座らせ、パンの籠を持ってエーミールが暖炉の前の席についた。
「はい、召し上がれ」
 にこにこと笑う。
 そこでようやく、なるほど、とヤンは気づいた。
「……いただきます」
 軽く手を合わせる故郷の仕草をしてから、パンに手を伸ばす。母親に与えたものより少し固形の具が多い、全体的に薄緑のポタージュを掬うエーミールを見て、やっぱりな、と思う。
「……なあ、何だっけ。『君は主によくお仕えするいい子だから』とかいうの、あれ、嘘だろ」
「んっ」
 なにか喉に詰まったのかエーミールが息を止めて、とんとんと自分の胸を叩いた。しばらく目をぎゅっと瞑って何かを念じるような顔をしてから、ああ、と息を吐く。
「……いきなり何、びっくりした。嘘、って……神父様がそう言ってくれてるのは本当だよ?」
「いや。じゃなくて、『主によくお仕えする』って方。俺はそっちの宗教のことよく知ってる訳じゃねえけど、食事の前には祈って十字を切るんだよな? やってる奴は見たことがある。母ちゃんの食事は事情が事情だからともかくとして、芯からしきたりが身についてるなら今やらない理由はないはずだ」
「……」
 エーミールは少し考え込むような顔を見せ、しばししてうん、と頷く。
「……これでも人前ではちゃんとやってるんだよ。ふふ、君はどう考えても異教徒だろうと思ってたから油断した。見たことがあったんだね、本当に信仰の篤い人を」
 少し面白がるような顔で笑った。ヤンは頭を掻く。
「信仰が篤いってほどの奴じゃなかった気はするけど、まあ、神頼みとかしたいような仕事ではあったからな。……それに、もしその教えを信じてるなら、俺のことももっと警戒してておかしくないだろ。蛇なんだから」
 詳しくはないのだが確かその宗教では、蛇は悪いものであったはず──という程度の知識はあった。それゆえに、彼らの種族が人に交わるにはそれなりの注意が要る。そう教わって育ってきた。
「そこはまあ、僕も最初はちょっと驚きはしたんだけど。……いや、見破られるとは思ってなかったな。そうだね、少なくとも盲目的に教えに従おうとは思わない。本当に心惹かれるものに出会ったときは心に従うよ」
 まっすぐにヤンの目を見つめてから、エーミールは微笑んだ。
「でも、神父様によくしてもらっているのも本当だよ。今はそこまでじゃないけど、父さんが死んでしばらくは本当に困窮してて、神父様に助けてもらわなかったら多分親子揃って餓死してた。ここまで生かしてもらった恩もあるし、神父様が望むならその道に進むのも悪くないと思ってるんだ」
 だから僕の内心は誰にも内緒だよ、とエーミールはいたずらっぽく言う。
「それに今は実感がなくても、いつかは僕にもわかるかもしれないからね、我らが主の御言葉の尊さが。そもそもそれに助けられて今ここにいる、ということでもあるし」
 ……その微笑を見て、少しだけ、こういうところは理解できないかもしれないな、と感じた。自分たちの種族に神はなく、ただ守り温めるもの、父にして母なる火山があるだけだ。それは実に現実的な目に見える尊崇の対象だ。その文化に馴染んできた自分には、そうでない神というのはよくわからないのかもしれない。
 ヤンはひとつ息をついた。
「……そういうもんか。悪いけど俺には多分、そういう神様とかはわからねえかな」
「それはそうだと思うよ。人間だって、あの教えを信じてる人ばっかりじゃない」
 少し申し訳なさそうな顔になっていたのか、それを見たエーミールが苦笑する。
「……まあ俺はただ、あの話聞いてからずっと、何か変だな、らしくねえな、と思ってたからさ。お前がいいならいいんだ、それで」
「そっか。気にさせてて悪かったね」
 エーミールはパンをスープに浸して口に運んだ。
「脱け殻、無事埋めてきたの?」
「ああ、なんかボロボロになっててだいぶ足りなかったけど、見つかった分は埋めた。……それでな、服は汚さないように気をつけてきたからできたら今朝みたいに剥がさないでほしいんだが」
 今朝の一幕を思い出し、ついやや早口になったヤンに、エーミールはにやりと笑う。
「えー、本当? まあそれは後でじっくり見てからで……」
 そう言いながら袖を引っ張ろうとしてくるので、慌てて身をかわす。
「やめてくれって!」
 エーミールは楽しそうに笑った。
「あはは、嘘だよ。ヤンが本当に嫌ならやらない。……でも着替えは何枚かあるから、必要だと思ったら言ってね?」
「……お、おう」
 油断も隙もないな、と思いながら、少し身を引き気味に食事を続ける。スープはよく煮込んだ野菜と鶏肉を潰したもののようで、恐らく母親にも同じものを食べさせることを想定した献立なのだろうと思われた。いや、昨日の食事を思えば、もしかするといつもそうなのかもしれない。だとすると何日か前のソーセージと卵、それから昼間の鶏肉が例外ということか。ヤンをもてなすために出された特別な食事。
 ふと引っかかった。昼夜ともに鶏肉。……するとこのスープに入っているのはもしや、昼間の鶏の残りの部位かなにかだろうか。
「……もしかしてあんまり余裕、なかったりするか?」
「ん。何が?」
 唐突な質問に、エーミールが首をかしげる。
「………………金の?」
 あまり直接的に聞くのも失礼なような気がしたが、婉曲に聞こうとしても何も言い換え方が思いつかなかった。エーミールは、皿をパンで拭っていた手を止める。
「うーん、まあ……不便のない程度に援助してもらってるから。でも母さんの薬代が結構かかるし、そこまで余裕があるわけじゃないね」
「……それは……文無しが転げ込んで悪かったな……」
 思わず額を押さえると、エーミールは首を振る。
「ううん、それは全然。君が元気ならそれで十分」
 何のためらいもなく言い切って、笑った。
「それに、お土産持って帰ってきてくれたじゃない。僕ちゃんと捌けるし、ありがたいよ」
 言われて初めて、自分にはエーミールが丸のままの獲物を捌けるか捌けないかという視点がなかったことに気づいたが、結果的には迷惑でなかったようだ。ヤンは胸を撫で下ろした。
「だったらいいんだけどな……じゃあ、機会があったらまた何か獲ってくる」
「うん、楽しみにしてる。……でも、今できるやり方だとヤンが苦しいんだよね? いくらか猟の道具はあるけど、何か使えるのある?」
 ヤンは首をかしげた。
「……わかんねえ、使ったことがない」
「ああ、それもそうか。自分で食べるだけなら道具なんて要らないもんね」
 エーミールは頷き、席を立つ。
「今日は果物も少し買ったんだ、切ってくるから」
 キッチンのドアを開けたまま、傍らの籠から取り出した洋梨を手の上で割っているのを、椅子の上で体をよじって眺める。
 猟の道具……というのはたとえば何だろう。ふるさとで自分たちがあえて飛び道具を使うなら弓矢だが、この辺りではもう少し進んだ武器を使っていそうだ。いやしかし、投げ網や罠の類いという線もあるか。
 いや、それより何より。
「お待たせ」
 フォークを添えて皿を置いたエーミールを見上げる。
「……なあ。その猟の道具って、お前が使うのか?」
 さっさとフォークを手にし、洋梨を突き刺しながらエーミールは答えた。
「ううん、ほとんどは父さんが使ってたのが残ってるだけ。猟師だったから」
「……その、父ちゃんって」
 先ほど確か、死んだと言っていた気がする。エーミールは少し眉を寄せて、どうしようかな、というような顔をした。
「……あー、うん。聞きたいなら話してもいい、けど、先に梨食べない? 多分美味しくなくなるような話だよ?」
「……いや、その……ごめん……」
 その返事を聞いた途端に後悔したが、もう遅かった。エーミールは一つ息をついて、洋梨を口に運ぶ。
「ううん、何日も気にされてるよりずっといいから、食べ終わったら話すよ。でも覚悟は決めといてね」
「……はい……」
 縮こまりながら洋梨をつつくヤンには、残念ながら既に、味はほとんどわからなかった。