avenge

6-4.


 翌日。
「よかった、すっかり腫れは引いたね」
 元通りになったヤンの顔を見てエーミールが笑う。
「普通でよかった。あんまり寝てるから、また脱皮するのかと思ったよ」
「いや……目が腫れたぐらいで皮脱ぎたくはねえな……」
 脱皮するにもそれなりの体力が要るのだ、いくら何でも身が持たないだろう。ヤンは凝り固まった体をほぐすように、大きく伸びをする。
「それでどうだろう、今日は出かけられそう? ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「? ああ、出られるけど……」
 エーミールはキッチンに行くと、大きさの割に軽そうな布袋を持って出てきた。
「これ実は昨日の鳩の羽なんだけど、ちょっと始末に困っててね。森のものだし、森のどこかに捨ててこられないかなと」
「あー」
 納得する。腐敗が遅い鳥の羽は、あまり処理しやすい廃棄物ではないのだろう。
「俺が喰うと骨やら羽やらひとかたまりになるからあんまり邪魔にならないんだけど、羽だけ喰うってのもちょっとな。わかった。羽だけなら多分捨ててもいいだろ」
「うん、お願い。……それと、せっかく森まで行ってもらうならついでに頼めたら、と思うんだけど」
 ヤンに布袋を渡し、エーミールが宙を見上げて少し考えるようにした。
「君がいた木から見ると、えーと、もう少し奥だから北西ぐらいかな。大きな栗の木があると思うんだ。多分そろそろ実ってると思うから、いくらか拾ってきてくれない?」
「? ……おう」
 やけに森に詳しいな、と思いながら頷く。
「じゃあちょっと待ってね」
 エーミールは言うと、キッチンの横のドアを開ける。奥に見えたのは本棚と、立派というほどではないがそれなりの重量感のある木の机。装飾よりも実用性を重視した作りだが、作業台というわけでもなさそうで、持ち主の猟師という職を思うと少し不思議だ。
 ドアから右手に入っていったエーミールは、肩に掛けられそうなベルトのついた、苔色の帆布の鞄を持って出てきた。使い込まれた雰囲気があるが頑丈そうだ。
「僕、いまいち君の荷物とか服とかどうなってるのかわからないんだけど、栗みたいなものは運びにくいだろうから、これ。蛇の姿でも、これなら首に掛けられると思うし」
「あー、そうだな。助かる」
 鞄を受け取ると、ヤンは布袋をその中に押し込む。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ。今からだから昼は要らねえ」
「わかった、行ってらっしゃい」
 エーミールが小さく手を振るのに笑って応えてから、ヤンは二階に上がって人目のないことを確かめると、しっかり肩から掛けて押さえた鞄ごと蛇に変じて、洗濯物の干されたベランダからまっすぐ上に飛び立った。

 一度高くまで上がり、角度を緩めて滑り降りるように西の森の梢を目指す。針葉樹の多い森はまだそれほど秋らしい様相ではなかったが、確かに木々の葉に、ここに来た頃ほどの勢いはなさそうだった。
 いつもの木の、少し高いところに降り立つ。この少し奥と言っていたな、と思って首を巡らした。ほどなくして、ごくなだらかな地形の少し遠くに、特徴的な栗の樹形を見いだす。
 あそこか、と思ったところで、ふと視界の右下隅に何か動くものが引っかかった気がした。
「?」
 そちらを見る。町から見ればほぼ真北、かつて放棄されたという鉱山。あまり高くない山の中腹に開いている、坑道入り口らしき穴に目が留まる。その辺りで何かが動いたような気がしたのだ。
(……ちょっと行ってみるか?)
 ヤンは枝から滑り降りながら蛇に姿を変え、他の木々の頂点を掠めるようにそちらへと飛ぶ。木々の枝に合わせて適当に翼を畳み、坑道入り口が見える木の陰に降り立った。
 ──気のせいではなかったことがすぐにわかった。うまく言葉が聞き取れないが人の声がする。不自然なほど反響している、ということは坑道の中から。
(……!)
 しかも声がするということはつまり、かなりの確率で中にいるのは一人ではない。よく耳を澄ましていると中で何か重いものを動かすような音もしている。作業をしているのではないかと思える物音だ。
(どういうことだ……?)
 落盤事故があってもう掘っていないのではなかったのか。町はそのせいで寂れた、とエーミールは言っていたはずだ。
 息を殺してしばらく観察し続けるが、音こそ聞こえるものの誰も出てこない。もう少し近づくか、いやそれはよくないか、と逡巡していると。
「……ん、おーい、そこでサボってるのは誰だ?」
「!」
 予想もしなかった横合いから、男の太い声がした。
 反射的に地面に屈み込み、蛇に身を変えてまっしぐらにその場を遠ざかる。一分ほど逃げただろうか、落ち葉の溜まった小さな窪地で止まり、ようやく身を起こした。
「あー……っぶねー……」
 すっかり坑道跡に釘付けになっていて自分の周りには全くの無警戒だったことを、心から反省した。周囲に聞き耳を立てる。風の音、鳥の声。少し遠くで、茂みが小さく揺れる音。少なくとも人間のような大きな生き物が動く音はしなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。
 あれはどういうことだろう。エーミールが嘘をついたのだろうか。あるいは彼も知らないのだろうか。
 敵意はなさそうだったのだから先ほどの声の主に話を聞いてみればよかった気もしたが、坑道跡にいる人々もよそ者には厳しいのだろうか──いやそれ以前にそもそも、彼らは『町の人間』なのだろうか? そうだとしたら、どうして町は寂れている?
 ……また、考えてもよくわからないことが増えてしまった。頭を掻いて、立ち上がろうと窪地に手を着く。
「……ん?」
 何か、落ち葉でも枝でもない硬いものが手に触れた。そのまま指先で探ってみると、不透明な薄紫色に錆びた暗褐色のメダルが出てくる。何か装飾があるようだが、錆と土のせいで定かには見えない。端に朽ちかけた紐がついていて、その紐を引っ張るとその先から、手帳のようなものが出てきた。
「……なんだこりゃ」
 開いてみる。紐の状態に比べて手帳そのものは、思いのほか傷んでいない。中には一ページあたり数行、二重丸、三角などの記号といくつかの数字が、手帳の厚みの半分以上にわたって走り書きで書き込まれていた。裏表紙をめくったところに『アロイス』と署名があるのは、恐らく持ち主の名前だろう。
「……」
 どうしたものかと少し考えたが、何となく気になったので鞄に滑り込ませた。ついでに布袋を引っ張り出して、中身の羽を窪地に撒く。窪地の土はふかふかしていた。ここならばきっと、比較的早いうちに土に返ることだろう。
 鉱山の件は後でエーミールに聞いてみようと決めて、その場を後にする。少し開けた場所からねぐらの木の位置を確かめれば、栗の木まで歩いて行けるだろう。

 ……栗拾いは思ったより随分楽しかった。最初のうちこそ恐る恐る手を伸ばしてイガで指を突いたりしたが、靴でうまく剥がせるようになるとペースが上がった。徐々に虫食いの見分けも一目でつくようになり、しまいには木についているのもいくらか落として拾った。
 そうこうしている間に日が傾き、ヤンは森を発つ。ベランダから入り、鞄を置いて階下に降りた。
「ただいまー」
「おかえりー、……ぶふっ」
 リビングで本を広げていたエーミールが思わず吹き出す。
「ちょっ……ばか……ヤン……拾いすぎだよ……」
 しばらく声もなく笑い突っ伏してからようやく、目尻を拭いながら言った。
「……やっぱりそうか、そうだよな?」
「げ、限度がある……ふふっ」
 行きに持っていた時は文字通り羽のように軽かった布袋に、みっしりと栗の実を詰めて帰ってきてしまった。両手で抱えても少々重い。テーブルに置いたらどさっと音がして、いくつかこぼれ落ちた。
「いや俺もなんか、飛び立つときにこれちょっと重いなーとは思ったんだけどな……楽しかったもんだから何も考えてなかったし、捨てるには勿体なくて……」
「た、楽しかったなら何よりだけど」
 まだ笑いながらエーミールが袋を引き寄せる。
「うわーすごい。こんなにあったら一冬食べられるよ。ありがとう」
 何にしよう、と実をつまみ上げてにこにこする。つられて笑顔になりながら、ヤンはいつもの席に座った。
「とりあえずいくらか茹でよう。保存用は砂糖で煮たら長く取っておけそうかな、大きいのがいいな……ちょっとより分けるの手伝って?」
「おう」
 エーミールがキッチンからボウルをいくつか持ってくる。テーブルの上に栗を広げ、大きさで分けていく。栽培種ではない栗の実の大きさは不揃いだったが、それでも拾う段階である程度選んでいたので、最初のうちにはじき損ねた虫食いのいくつかを除いてはどれも実が詰まっていた。
「……そうだ。お前さ、鉱山は今はもう掘ってないって言ったよな?」
 大小どっちに入れるべきか栗の実を見定めながら、ヤンは呟く。エーミールは首をかしげた。
「? うん、言ったよ」
「俺、今日、あっちの方で人を見たんだ」
「……えっ」
 エーミールは手を止めた。
「? どうして?」じゃないの?  僕はよく知らないけど、大規模な落盤事故だったから町の人たちが懲りちゃって、二度と掘らないことに決めて封鎖したって聞いたよ」
「……いや気のせいってことは……ないと思う……んだが」
 それだけはあり得ない、という顔をされたので、若干自信がなくなった。
 よく思い返してみると少なくとも音は確かに聞いた、至近距離で声も聞いたと思うのだが、姿を見たかというとそれは最初の一瞬しか認識していない。
「だって、この町の人が気づかないようにあの山を掘るなんて無理だよ。鉱山町だった頃はみんなここに住んでたんだから、あの山のあたりは多分、暮らせるようになってないと思うし」
「……そう、か?」
 歯切れの悪い返事をして栗を見つめる。よく見ると小さな穴が開いていたので除けた。
「うん、それにね……」
 エーミールは自分も栗の実をつまんでかざしながら、言葉を探す。
「僕、正直に言うとヤンには、あんまり鉱山の方には行かないでほしいんだ」
「?どうして?」
 問い返すとエーミールは、唐突にヤンの顔をじっと見る。
「うーん、君が泣かないなら言うけど、またあんな顔されたらなーと思うと」
「っ」
 ぎょっとして動きを止める。
「……ど、努力するから」
「……うーんんん。まあ……」
 エーミールはヤンの顔をなおも穴が開くほど見つめた後、ひとつ息をついて言った。
「父さんが発見されたのがあっちの方だから。……君がその辺にいると思うと、僕がとても心穏やかでいられないよ」
「……!」
 息が止まって顔がこわばるのは感じたが、かろうじて泣きそうにはならなかった。エーミールがそう感じるならとりあえず気にするのはやめよう、と決める。
「……そうなのか、そりゃ悪かった。だったら近づかないことにする」
「うん、お願い」
 残り数個の栗を手でかき寄せて検めながら、エーミールは頷いた。
 その日の夕食には主菜の他に、山積みの甘い茹で栗が出た。実を掻き取ったものを口に運んで、エーミールの母もほんのりと微笑んでいた。