avenge

7-1.


 母は最期の息で、父の名を呼んだ。

 ◆

「……うん、安定してる。最近お母さんは調子がいいねえ、何かいいことあったのかな」
 往診に来た医師アントンが、エーファの胸に当てていた聴診器を外す。エーミールはうっすらと微笑んで、僕にはちょっとわかりませんけど、と答えた。
「もしかすると少し僕が料理上手になった、とかかな」
「ああ、それはいいことだねえ。ご飯が美味しいのはいいことだ。ご飯の後に薬を飲まないといけない患者さんたちにとっては、せめてもの救いだと思う」
 薬は苦いからねえ、と口元を歪めるアントンにエーミールは苦笑する。
「先生は薬飲むの、苦手なんですか。処方するのに」
「苦手だよ。だから医者になったんだ、薬飲まないで自分で治せたら一番いいじゃないか」
「なるほど、そういう考え方もありますね……」
「あっはっは、納得してない声してるねえ」
 アントンは大口を開けてけらけら笑う。やや重ための黒縁眼鏡の下、人懐こそうな焦茶色の目がふと真顔になった。
「いや、薬飲む本人の前でこんなこと言ってちゃダメだなあ。エーファさんすみません」
「大丈夫ですよ、母さんも先生の雑な話には馴れてると思います」
「うわ、エーミール君は容赦ないなあ!」
 アントンはまた声をあげて笑った。黒髪に若干白髪が混じり始める年齢の男性にしては少し高めの声だ。整頓が苦手なのかかなり膨らんだ往診鞄を開け、あらかじめ書いてあったらしい処方箋を取り出して、内容を確認する。
「まあそんな感じでこのまま看てあげてていいよ、処方箋、これいつものやつね。薬はいつも通りケヴィンさんから買って」
 エーミールにそれを渡すと、鞄の蓋をぐいぐい引っ張って閉じた。自分も処方箋に一通り目を通して、エーミールは頷く。
「はい、確かに。ありがとうございます」
「はいはい、じゃ、エーファさんお大事にねえ」
 ばたばたと足音を立てて玄関から出ていく。エーミールはそれを見送ると、玄関に鍵をかけた。
「……ふう。あ、もう行ったから出てきていいよ」
「おう」
 階段のすぐ上、二階廊下で耳をそばだてていたヤンは、呼ばれて階段を降りる。エーファの調子がよければ月に一度ほどの割合でこの家を訪れているらしい医師アントンだったが、たまたま出かけたり寝ていたりしていて、ヤンにとっては今日が初遭遇だった。
「……なんだ今の、変な医者だな」
「ふふっ」
 エーミールは軽く吹き出した。
「確かに変わり者だと思うけど、アントン先生は腕のいいお医者様だよ。内科が専門だけど少しくらいなら切ったり縫ったりもしてくれるから、みんな頼りにしてる」
「そうは見えねえなー……」
 二階の窓からちらりと姿を見て、会話を漏れ聞いていた限り、圧倒的にそそっかしそうな男だ、と思っていた。いや、エーミールも言っていた通り、ああいうのは『そそっかしい』ではなく『雑』と言う方が正しいのかも知れないが。
「あとまあ、落盤事故以降もずっと町に残ってくれたのがアントン先生だけだから、っていうのもあるんだけどね。……さて、と」
 エーミールは処方箋をリビングに持って入るとテーブルの上で丁寧に畳み、奥の部屋の机の引き出しにしまった。ん、とヤンは疑問に思う。
「ケヴィンさん、って奴のとこに持っていかないのか?」
 エーミールはああ、と頷いた。
「ケヴィンさんは移動商人だから今はまだ来てないんだ。次は三日くらい後かな、来ると何日かは泊まっていくみたいだけど」
「そうなのか」
「うん。薬とか煙草とか、頼んでおくとちょっとした細工物とかも持ってきてくれるよ。移動が長いから重いものは嫌がるね」
 この辺で簡単には調達できないものは、移動商人さんたちに頼むんだ、とエーミールは言う。
「……ただ、とても……道中の危険も手間もあるんだから仕方ないんだけど、あの人たちの売るものはとても……高い……」
 額に手を当ててエーミールは力なく笑った。
「まあ、だから僕は余分なものは買ったことないな。母さんの薬だけ」
「……そうかー」
 それならもしかしたら自分が役に立てる可能性がないでもない、とは思ったが、あまり難しいお使いができる気もしない。ひとりで他の町に行って、必要なものを的確に手に入れることができるかというと。
「……あー、もし俺で済むものがあったら言ってくれな? ややこしいのは無理だけど」
「えっ。……ああそうか、ヤンは自由に出られるもんね。うん、どうしてもってことがあったら頼むよ」
 エーミールは頷いて、さ、お昼にしよう、と立ち上がった。