avenge
7-2.
……ヤンの目から見ると、異変が起こったのはその二週間後のことだった。
エーミールの母親はその数日前から体調を崩しがちで、そうなって以来食事はエーミールが一人で食べさせていた。既に食器類もすべてテーブルに用意してしまったヤンは手持ち無沙汰に長椅子に掛けて、特に理由もなくぼんやりと窓の外を眺めていた。
「!」
急に、長椅子の座面が沈んだ。
ぎょっとしたものの、エーミールが戻ってきたのだとすぐに気づいて振り返る。が、想定した高さで目が合わなかった。視線を下げる。
「……。おい?」
ヤンの左隣に腰を下ろしたエーミールはぐったりと斜めになり、長椅子の端の肘掛けに頭を載せて、右手で顔の上半分を覆っていた。
「おい、エーミール?」
その唇がかすかに動いているが、震えがひどくて何を言っているのかわからない。何度か見ているうちに、どうして、と呟いているのがわかった。
迷ったが肩に手を掛けて揺すぶってみる。するとエーミールははっとしたように身を起こして、そこでようやく視線が合った。
「……大丈夫か? 母ちゃん、そんなに悪いのか……?」
「……、あ……」
呆然とした表情でヤンを見つめ返す、その顔色が若干蒼い。
「……違う、大丈夫。具合は、昨日よりいい、と思う。……あ、ごめん、急に。お昼ご飯……」
断片的に呟きながら体を起こして立ち上がろうとするのを、両手で服を引っ張って留めた。
「いいから。……ひどい顔色してるぞ」
「……あ、え、そう、かな?」
言いながら笑顔を作ろうとしているようだが、あちこち引き攣ってあまりにも痛々しい。彼をまずきちんと座らせて、自分は一度立ち上がり、正面に回る。
「そんなんじゃお前が食えないだろ、俺の飯とかどうでもいいから休めよ。……俺にできることあるか?」
「……、っ……」
エーミールは息を詰まらせた。
「側に……側にいて……それだけでいいから……」
「……わかった」
正面だと姿勢が悪くてつらいので、元通り隣に座って手を繋いでやる。力なく投げ出されたエーミールの指から、細かい震えが伝わってきた。
気にはなる。気にはなるが、今は無理には何も聞かないでおこう、と思った。
その日はそのまま、日が暮れるまでそうしていたが、夜になるとエーミールは何とか立ち上がって動き始め、眠るまでずっといつも通りの日課をこなした。
翌日は当たり前のように早朝に起き、教会へ行って、当たり前のように暮らしていた。なかなか問える雰囲気にならず何も聞けないまま、ヤンも同じように過ごした。
……そして更に、その翌日のこと。
エーミールが朝の日課のために教会に出ている間に目が覚めて、ヤンは自分で鎧戸とベランダの窓を開けた。すがすがしい──と言えればよかったのだが、どんよりした雲が立ち込めていた。せっかく起きたのにな、と思いながら、人のいないのを確認してベランダに出る。
……と、遠くから人が怒鳴り合う声が聞こえてきた。
(……?)
この町で、人と人との衝突は珍しいような気がする。何か起こったのだろうか、と声の方向に近づき、ベランダの端まで来てしまったので手すりを伝って屋根に上がった。あまり目立っても嫌なので身を低くし、隣の家の屋根に渡って近づいてみる。
「──!」
息を呑んだ。路地をしばらく進んだ先、噴水のある広場で、二人の人物が怒鳴り合っていた。そのうち一人がエーミールだ。もう一人は大きな荷物を背負子でかつぎ、灰色の帽子を被った、恐らく商人らしき男。周囲では数人、住民や他の商人が遠巻きにしている。
「ええいしつこいな! お前のところの薬はケヴィンの商いだろ!」
「ごめんなさいクリストフさん、それはわかってるんです、わかってるんですけど……!」
「確かに俺も時には薬の商いをするが、ケヴィンがお前にどんな薬を売ったかなんて知らんし責任も持てん! あっこら、荷物を触るんじゃねえ!」
クリストフと呼ばれた商人が、荷物をエーミールの手から遠ざけるように急に向きを変える。そのままの勢いで、姿勢を崩したエーミールの頬を平手で張った。
「っ」
ヤンは反射的に屋根から飛び出しかけて、ぎりぎりのところで抑えた。踏みとどまれず石畳に這ったエーミールが、それでもクリストフの足にすがりつこうとするのが見える。
「お願いします……お金ならいくらでも……!」
「ないもんはないんだよ! だいたい俺とケヴィンじゃ仕入れ先が違うから薬の配合も違う、同じ名前の薬があっても同じようには使えねえぞ!」
言われるとエーミールは呆然と動きを止め、這いつくばったまま背を丸める。
「……、そんな……」
「わかったらとっとと帰れ! 二度と近寄るんじゃねえ!」
クリストフは言い捨てて早足にその場を離れていく。商人や住民たちは異様な状況にひそひそと何か囁き合っていたが、やがてエーミールが何とか立ち上がると目を逸らした。
ヤンは自分も呆然としてしまって、屋根に伏せたままそれをただ見ていたが、エーミールが重い足を引きずりながら家の方に戻ってくるのに気づいてはっとした。素早く部屋に戻る。とっさに寝たふりをしようか迷って、窓が開いているのでは同じだ、と思い直してベッドに座った。
──一体何だ、今の光景は。
たいして動いたわけでもないのに鼓動が早くなっていることに気づき、深呼吸をして気を静める。ひとまず落ち着かなければいけない。何かおかしなことになりつつあるのは明らかだ。
……クリストフは、ケヴィンの商った薬に責任は持てない、と言っていた。一方でエーミールは、いくらでも金を出すから、と頼み込んでいた。
薬、と言えば、恐らくエーミールの母親のためのものだろう。
そういえばエーミールが真っ青になって母親の部屋から戻ってきたのは、二日前の昼食時だった。食事を喉に詰まらせるなどのトラブルならもっと別の感じで慌ただしくなるはずだから、問題があったとすれば。
(……薬に何かあった、のか……?)
ようやくあり得そうな説を思いついたとき、玄関のドアがゆっくりと開く音がした。慌てて階段を駆け下りる。
「おかえり──」
エーミールは答えなかった。それどころかヤンのことが目にすら入っていないように、避けもせずまっすぐに歩いてくる。
「え」
ぎりぎりで身をかわしたものの、その直後、エーミールはリビングの入り口で蹴躓いて盛大に転倒した。ヤンは一瞬硬直してしまったもののすぐに我に返り、エーミールがテーブルの脚で頭を打たなくてよかった、と思いながら駆け寄って助け起こす。
「大丈夫か!?」
「……」
エーミールは茫洋とした表情でヤンの顔を見上げていたが、
「……えへへ、転ん、じゃった」
照れ笑いに似た歪な表情を浮かべ、のそのそと自力で起き上がった。緩慢な動きでキッチンに向かおうとするのを、とっさに後ろから無理矢理引っ張って、長椅子に座らせる。
「……」
何度か立ち上がろうとするのを押さえているうちに、抵抗が徐々に減っていった。エーミールは座ったままぼんやりと宙を見上げる。額に擦り傷、膝にズボンの布のほつれがあることにヤンは気づく。手当てしてやりたい気もするが、多分触ると痛いだろうから、十分落ち着いていないと危ないかもしれない。
「……休んでろ、大丈夫だから」
座らせた体勢からゆっくりと横に引っ張って、長椅子の上に寝かせる。ほとんど瞬きもしないので、片手で目を覆ってやった。
じっと待っているとやがて、強張っていたその体から力が抜け、呼吸が徐々に穏やかなものに変わる。そっと手を外してみると、エーミールは眉を微かに寄せてはいたが、瞼を閉じて眠っているようだった。