avenge
7-5.
翌日。
ヤンが起きた時には、既にエーミールは教会に出掛けたあとだった。『予定通りに』とだけ書かれたメモと手のひらほどの大きさのパンがひとつ置かれていたので、パンを齧ってから森まで来た。
入り口付近でしばらく待っていると、恐らく十時頃だろうか、エーミールが姿を見せる。普段よりも布地の厚い、地味な色合いのシャツとズボンを着けていた。何か少し中身が入った布袋を持っている。
「お待たせ、ごめんね」
「いや」
この辺りは切り開かれ、管理されているらしく、道がはっきりしていて林床が明るい。エーミールは周囲を見回すと、近くの日向に生えていた植物に歩み寄った。棘があるように見えたがそうではない、葉だ。先端に薄紫の小さな花がついている。ほのかにいい香りがする──ローズマリーだ。
エーミールは枝を何本か切り取ってまとめると布袋に入れ、行こう、と森の奥の方を目で示した。
「……今日は何をしに来たんだ?」
そういえば目的を聞かなかった、と思って問うと、ああ、とエーミールは頷く。
「少し材料を集めに。よくしなる蔓か枝と、飾りにするもの……木の実の類いとか、黄葉した葉っぱかなあ。リースにして母さんの部屋に飾ろうと思うんだ。母さんの誕生日だし。この森の奥の黄葉が好きだから」
多分今はもう連れてきてあげられないからね、と寂しそうに笑う。
「……」
何を言うべきか迷って結局言葉にならないまま、進み始めたエーミールの横に並んだ。
針葉樹の多い森の中は少し進むと大分薄暗く、そのせいか下生えの量はそこまででもなかった。時折足に引っかかるがその程度だ。足元に起伏は少なく、森の中としてはかなり歩きやすい部類と言えた。
「……この辺り、最近は誰も手を入れてないみたいだ。このまま荒れていくのかな」
それでもエーミールは、残念そうに呟く。
「昔はこうじゃなかった。父さんが生きていた頃は。深いところは獣たちの領域だったけど、この辺りはまだみんなで管理してたはずなのに」
自分で語っている昔の景色を周囲に重ねて見るように、彼は少し遠い目をした。
「……よく来てたのか」
「うん。父さんと二人で……季節がよければ母さんも。いろんなことを教わった。猟も少しは習ったよ」
あの頃はまだ、僕は将来猟師の後を継ぐんだと思ってたんだ、とエーミールは笑った。近くに落ちていた鮮やかな黄色の葉を拾う。それを落とした木に目を留めて近づいていき、傷のない葉を選んで丁寧に袋に入れていった。隣で手伝いながらエーミールの表情を伺う。いつものように微笑んでいるが、やはりどこか、弱い。
十数枚拾い集めると立ち上がり、周囲を見回して、近くの木に下がっていた太い蔓植物を引っ張って採った。それを布袋に押し込むとエーミールはそのまま、とっとっと、と軽い足取りで更に奥に入っていく。
「お、おい」
慌てて追いかけると急にエーミールは立ち止まる。
「──静かに」
手で制止された。
エーミールの目線を辿ると、低い枝を何本か透かした先、もう少し高い木の枝を見ていた。二十、いや、二十五メートルほど離れているだろうか。しっぽのふさふさした栗鼠が二匹、枝を伝って右に左に動いている。時々止まって背中を伸ばすのが愛らしい。
エーミールは布袋に手を突っ込むと何かを取り出し、袋をヤンに押しつけた。慌てて受け取り、何だ、と問おうとしてぎょっと息を止める。
エーミールが手にしているのは、枝分かれした短い木の棒のようなものだった。二又の間にゴムが張られて、中央には凹んだ部品が取り付けられている。持ち手にあたる太い部分には、滑り止めの布が巻かれていた。パチンコ、あるいはスリングショットと呼ばれる猟具だ。二度ほど軽くゴムを引っ張ってみてから、エーミールは手にしていた弾を込める。
何の力みもない無造作な動きで、右手で枝の方にスリングショットをかざし、左手はゴムを頬の横まで強く引いた。左右の手が作るラインが、透き通った視線とぴたりと一致した瞬間、ぱっと手を離す。
……栗鼠の悲鳴が聞こえた。それに続いて、少し先の茂みの中にその軽い体が落ちる音。
「……」
ヤンは目を見開いて、エーミールを見た。エーミールは小さく一つ息をついた。
「ヤン、あれ、取りに行ける?」
「……行けるけど、え?」
「じゃあお願い。殺しちゃったから、置いといても腐るだけだ」
「……」
一瞬、誰か知らない人間を見ているような気がした。ほとんど表情のないその顔の下で一体何を考えているのかまったくわからない。どこかにしまいこんであった人間への恐怖が首をもたげそうになる。首を振ってその考えを振り払いながら、ヤンは茂みに近づき、栗鼠の死骸を探した。
それは軽かった。まだ温かかった。
しかしこれ以上なく的確に頭蓋を打ち抜かれ、完膚なきまでに絶命していた。
……少し背筋に冷たいものを感じながら来た方に戻ってみると、エーミールは元の位置よりまた少し奥の木の下、幹に体重を預けてぺったりと座っていた。
「……ありがとう」
栗鼠の死骸を差し出すと、エーミールはそれまで持っていたより一回り小さい別の布袋を取り出し、そこに入れる。
「……」
立ち上がる気配がないので、少しためらってから右隣に座った。エーミールはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「これは、モーリッツお爺ちゃんへのお礼にするよ。お爺ちゃんは毛皮や皮を素材にしていろいろ作るから、傷が少なく仕留められて、毛皮が綺麗にとれた方がいい。だから頭を狙ったんだ。たいして足しにならないと思うけど、何匹分か集まれば使えるはずだから」
「……ちゃんと目的があったのか」
少しほっとして言うと、エーミールは苦笑した。
「目的もなく狩らないよ。……いや、でも、少し」
投げ出した足の上で両手のひらを広げ、見下ろして声を落とす。
「少し……雑念があったのは、否定できない、かな」
「……」
今はあまり深く考えさせない方がいいかもしれない、と思った。エーミールの両手の上に、ヤンは自分の左手を重ねる。年齢の割に傷や肉刺の多い手。一人で母を守ってきた手。
「たいしたもんじゃないか。あんなの全然当たると思わなかったぞ」
「そんなことない、豆鉄砲だよ。父さんに習ってた頃、他の道具はまだ扱わせてもらえなかったから、正真正銘これしか使えない」
エーミールの笑みに、かすかに自嘲のニュアンスがこもる。……どうやら止められなかったようだ、とヤンは思う。
「だから見えても、狙えても、当てられても……僕に殺せるのは、こんな小さな弱い生き物だけだ。……違う、それだってやるべきじゃなかった。言い訳してもやっぱり今、たぶん僕は、殺したくて殺した。……ごめんなさい」
エーミールは栗鼠の袋を悲しげに見て身を縮めようとしたが、両手をヤンが塞いでいるせいでわずかに背を丸めるにとどまった。顔を見られたくない、と言うようにエーミールはヤンから目を逸らす。
ヤンはその背中を見ているうちに、こいつはこんな距離で何をごまかせる気でいるんだ、と、逆に少し可笑しくなった。小さく笑って語りかける。
「殺したくて殺したんだとしても、悪かったって思ったんだろ。そいつはお前が狙わなくてもいつか死んだよ、何でもないところで鷹や烏に襲われて。もしかすると俺が食ったかもしれないし冬の寒さで凍えたかもしれないよな。だから余計なもん抱え込むな、森中殺し尽くしたんならともかくたかだか栗鼠一匹で、そんな世界が終わるような顔することない」
「……」
エーミールは答えないが、聞いているだろうことは何となくわかった。
どうしようか、と思う。
……多分エーミールはまだ、昨日の朝、自分が寝ていた間にヤンがしていたことを知らない。刺激しないために黙っているべきなのか、知っていることを告げて楽にさせてやるべきなのか。
……町から離れたこの森の中でなら、そう簡単には逃げられないこの距離なら、どうするべきなのか。
しばらく迷ったが、告げることにした。
「……ところで悪い、一つ謝ることがある。昨日の朝、お前が外で商人と言い争ってるところ、屋根から見てた」
「!」
エーミールが弾かれたように振り返った。一瞬逃げ出しそうにも見えたので、ヤンはその右手首を掴んで引き寄せる。
「覚えてるかどうか知らないけど、その後ふらふら帰ってきたお前を寝かしつけたのは俺だよ。その間にお前の母ちゃんにも少しだけ話聞いた。今回買った薬が変だったんだよな? それで母ちゃんが危ないんだよな?」
「……」
エーミールは真っ青になってぎゅっと目を瞑った。その手が、身体が、震えているのが伝わってくる。
「今日だって本当は、だからここに来たんだろ。誕生日なんかじゃないんだろ。……違うか?」
抑えめな声で問い、じっとそのまま反応を待つ。
「……ヤンは本当、変なところで勘がいいね……」
エーミールはやがて大きく息を吐くと、涙目で笑った。その身体はまだ、小さく震えていた。
「……この間買った薬は捨てた。母さんが、ここ何日かの薬が少し苦いって教えてくれたんだ。アントン先生は服んでみたことがないみたいだったけど、母さんの薬は苦くなんかない、甘いんだよ。少し舐めてみたけど確かに味がちょっと違った……処方箋はいつもと同じだったから、ケヴィンさんが薬を間違えたんだ」
せめてケヴィンさんがいる間に気づけたならまだよかったんだけど、とエーミールは言う。
「でも前の余りがあったから、母さんが今回買った薬を飲み始めたのはケヴィンさんが発った後だった。……アントン先生にも聞いてみたけど、怪我の薬はともかく、長期内服の薬は在庫持ってないって言ってた。代わりにできるものもないって」
ヤンに掴まれた右手に左手を添え、祈るように額に押し当てて、エーミールは呟く。
「……だから、もう仕方ないなって思ったんだ。本当の薬が手に入らなくて、今回の薬じゃ駄目で、ケヴィンさんがまた一ヶ月先まで来ないなら、もう……母さんに薬は飲ませてあげられない。そう、伝えたんだ」
「──!」
息を呑んだ。……エーミールの絶望は、自分が思っていたよりもう一歩先にあった。
右手の甲を額に擦り付けるようにしてエーミールは叫ぶ。
「……あの薬がなかったら心臓が止まるのに、母さんが、もういいよって笑うんだ! 何もよくなんかない、いなくならないでほしい、どうして僕には何もできないんだ、どうしてこんなに何もかもうまくいかないんだ!」
「……っ」
ヤンは息を詰める。今自分が泣き出すわけにはいかない、今回だって絶対に、泣きたいのはエーミールの方だ。だが彼の目はいつの間にか乾いてしまっていて、ただ苦しそうにあえぐばかりだ。
しばらく荒い息だけが聞こえ、やがてそれが静まっていく。
「……それでも諦め切れなくて、昨日町に来たクリストフさんに食い下がった。迷惑だったと思うよ。クリストフさんの薬とケヴィンさんの薬は配合が違うのを、僕は前に聞いて知ってたんだから。……それに彼だって、この町か余所かは知らないけどお客さんのために薬を運んでる。母さんのために他の誰かが死んでもいいかと言えば、そんなことはない。──あんなとこ、まさかヤンに見られてるとは思わなかった、みっともなかったでしょう。恥ずかしいな」
エーミールは苦笑する。
「……みっともなくったってしょうがないだろ、そんなの、諦められるわけないだろ……」
一部始終がわかってもやはり、言えることなどほとんどなかった。ただそっとエーミールの手首を離して、少し赤く痕が残った部分を撫でてやる。
「君に相談しなくてごめん。僕もぎりぎりで……もう何も考えられなくて……」
「……そんなの謝るなよ、当たり前だろ」
話してくれなかったのは多分、自分を頼りにしてくれていない、ということではないのだろうと思う。
ヤンに限らず誰に預けても重すぎる判断だったから、エーミールは一人で決断してただ黙っていたのだ。……そのまま、自分が潰れそうになるまで。
「……」
言うことが思いつかなくなって黙ると、森の上の方を風が吹き渡っていく音が聞こえた。
その音につられて、空から見た景色を想い──ふと、薄い可能性に思い至る。
「……ケヴィンの仕入れ先、とか、お前わかるか?」
「え……」
エーミールが顔を上げた。
「仕入れ先はわからないけど、確かいつもここから南東の大きな町で仕入れをしてるって……ヤン、まさか」
「……大きな町ったって多分、薬屋ばっかり十軒も二十軒も立ち並んでるわけでもないよな? 二~三軒だったら名前と人相で聞き回ったら、どこで買ってるかわかるんじゃねえか?」
「でもそんな、え、──いや……」
エーミールは口元に手を当てた。
「……そうだね、可能性はある。そうか……でも……」
真剣な顔で地面を睨み付けながら考え込む。ヤンはためらいながら、口を開く。
「……それで同じ薬が手に入るかもしれねえ、とは思う。ただ俺は昨日、お前の母ちゃんと、エーミールの側についててやるって約束した。薬を探しに行ったら、その間は側にはいてやれない」
「……あ、え、それはどうもありがとう……うん、まあ、そうだね」
……うっかりしたことを言ったせいで、むしろ思考を乱してしまったようだった。一瞬毒気の抜けたような顔で、エーミールが頷く。
「……悪い、変なこと言った」
「え、うん、いや。……確かケヴィンさんはそこからこの町まで三日って言ってた。でも、空を飛んだらきっともっと早いよね」
「ああ、速度も違うし、道を通る必要もないからな。けど歩いて三日か……俺でも片道一日はかかる気がするな……」
「そうすると、薬がすんなり手に入ったとして往復で二日。……うん」
頷いて、エーミールは立ち上がる。
「今はとりあえず家に帰ろう、今この場じゃ判断できない」
「そうだな、わかった」
ヤンも身を起こして伸びをした。気にはなるが一緒には帰れない。
「……これ以上お前に判断を強いるのは本当に悪いと思う。でも俺は、お前がしてほしい方をしたい。側にいた方がよければいるし、行った方がよければ行く。俺の負担は考えなくていい、好きな方を選んでくれ」
エーミールは頷いて、口元に笑みを浮かべた。
「任せて、帰るまでに考えをまとめるよ。その上で母さんの様子を確認して、地図を見て、お金を用意して……もし行ってもらうとしてもそれからだ」
そこにいるのは無力感に打ちひしがれていたここ数日のエーミールではなかった。彼は本来の気力を取り戻してその場に立っていた。
「……おう!」
応えて、ヤンは手近な木に這い上がる。エーミールが布袋を手に来た道を戻っていくのを確認してから、空に舞い上がった。
……ヤンと別れて一人で歩きながら、エーミールは深呼吸をする。
自分にできることもなく、ただ弱っていく母を見ているしかないのは、ひどくつらいことだった。せめて手を動かしていられればまだよかったが、他の何事も手に着かなかった。今度こそ耐えられないかも知れない、と思い始めていた。
……だが、今は彼がいた。また彼が助けてくれた。
たった今、ヤンが自分に、今できることをくれたのだ。それがあればきっと自分は、最善の努力をすることができる。
(──ありがとう。大丈夫、僕はまだ戦える)
エーミールは足早に町に向かいながら、必要なものの在処を思い出し、時間の計算を始めた。