avenge

7-6.


 ベランダから入り、エーミールが戻るまで息を潜めて待つことにする。家の中は特に騒がしいこともなく平穏だ。知らないうちに干されていた数枚の下着がすっかり乾いていたので、静かに取り込んで畳む。もし行くなら鞄が要るだろうと思い、ベッドの下から引っ張り出して、埃をはたいておいた。
 しばらくして玄関のドアが開き、そのままエーファの部屋のドアが開いて、モーリッツとエーミールが二言三言会話して、また玄関が開いて、閉まった。鞄を肩からかけて階段を降りる。
「お帰り」
「ただいま」
 エーミールは既に母親の部屋を出てリビングにいた。テーブルの上に地図を広げている。この地方のものらしい。
「ヤン、結論から言う。行って。悪いけど今すぐに」
 きびきびとした口調でエーミールが言う。
「おう」
「地図読める? ここがこの町。南東の大きな町っていうのはこっち。思ったより街道が曲がってるから、歩いて三日って言ってもそこまでの直線距離じゃない」
 とん、とん、と地図上の地点を続けて指さしながらエーミールは早口で説明する。
「お金は十分とは言えないけど、僕がこつこつ貯めてきた分が何とか、一ヶ月分の薬を一回買うぐらいはある。これ。あと処方箋にあった薬の名前も書いた」
「ああ」
 手のひらほどの頑丈そうな茶色い布袋に小銭がみっちり詰まったものを差し出してきた。続けて差し出された畳んだ地図とメモとともに受け取って鞄にしまい、しっかり鞄のボタンを留める。
「あとケヴィンさんの人相だけど、中肉中背、髪も目も黒くて丸顔で右目尻に大きな黒子。『あっしは~っす』っていう特徴的な話し方をする。一応さっきのメモの余白にも書いたから、忘れたら見て」
 エーミールはそこまで言ったところで言葉を切り、視線を少し下げて、それでもあくまで芯のある口調で言った。
「ただ、……帰って顔を見たけど、やっぱり母さんの調子がだいぶよくない。間に合わない可能性がある。半々というほど悪くないと思うけど、母さんと話してくれた君に言わずに済ませていいほどでもない。……だからもし母さんに言いたいことがあったら、言ってから出てほしい」
 ヤンは眉を寄せる。
「……そうか、わかった」
「……もし間に合わなくても、それは仕方ないと思ってる、間に合うと信じてるけどね。それと……」
 そこでエーミールの視線が、少し揺らいだ。
「……もし君が帰ってきて、家の中の様子がおかしかったら、そのときは僕と母さんのことは気にせず、すぐにここを離れてほしい」
「……?」
 ヤンは首をかしげる。エーミールは笑顔を作った。
「要するに、もし間に合わなかったら家の中によその人が大勢いるかもしれないから、ってこと。見つからないようにしてきた以上、隠れ切ってもらわないといけないからね」
 言われてみればそれはそうなのだが、なぜか少し気になって、問う。
「……他に何とかできないのか?」
「どうだろう、考えてみるけど。今の段階では、もしそうだったら一時退避して、としか言えないな」
 エーミールは言い、さあ行って、と廊下に追い出すような手つきをする。ヤンは階段の方に向かおうとし、思い直してエーファの部屋に寄った。
「おばさん」
 ドアを開けて、思わず息を呑む。エーファの呼吸は昨日見たときよりかなり苦しそうで、まっすぐに寝ていられないのか少し身をよじっていた。
「……おばさん、返事しなくていいけど、俺、ちょっとエーミールに頼まれてお使いに行くよ。できるだけ急いで帰ってくる。だからちょっとだけ待っててくれ」
 言うと踵を返し、階段を駆け上がる。ベランダの手すりを踏み切って空に飛び出した。

「……ヤン。ごめんね」
 その姿を見送って、エーミールは呟いた。