avenge
8-1.
君のその冷たい手を、どうしても離さなくてはいけなかったのに。
◆
目を覚ましてからのエーミールの行動は早かった。乾いた涙を洗い流すと、これから人を呼ばなくてはならないから、とヤンを二階に追いやって鎧戸も閉めさせた。ヤンには、ほんのわずかな時間エーファに手を合わせることだけしか許されなかった。
隙間から差し込むわずかな光の中で、ぼんやりしながらベッドに座っていた。階下では暖炉が焚かれ、部屋の中央に縦に通された金属の配管が温かい。確かに幾人かが家の中に入ってきているようで、まさにその配管を通して声が聞こえた。
あるいは聞き覚えのある声が、
──「エーミール君……エーファさん、残念だったねえ。薬の件は本当に不幸なことだった……」
──「はい……アントン先生には、長いこととてもお世話になりました、ありがとうございました」
──「いや、肝心なときに何の役にも立てなくてごめんね。もっと備えてなきゃいけなかったなあ……」
またあるいは知らない声が。
──「エーミール、どうしてこのようなことになる前にわたしを呼ばなかった? エーファもまた敬虔な神の子羊だっただろうに」
──「神父様、ごめんなさい。……僕、ひとりだったからどうしても、母さんの元を離れられなくて」
──「……そうか、それはそうだな。仕方がない。……明日の昼ならばエーファのためのミサの時間がとれる。それで構わないかね」
──「はい。……ありがとうございます」
その他にも幾人も、幾人も。よくもこれほど、というほどの人々が断続的に訪れて、ヤンは部屋を出られなかった。この有様では町中の住民がやってきたのではないか、とすら思った。
しばらくはその会話を聞いていたが、やはり長距離の飛行で疲れていたのだろう、外の光が入らなくなった頃にはいつの間にか眠りに落ちていた。
夢も見ず眠った。目を覚ましたときには家の中に誰の気配もなかった。空腹を思い出して用心深く階下に降りると、正午を回ったところだった。
エーミールに悪いかな、と思いつつ、もはやごまかしのきかない飢餓感に耐えかねてキッチンの戸棚を漁る。ブロックのままのベーコンをほとんど噛みもせず三口で飲み込み、硬くなりつつあった黒パンも塊のまま囓って、何も気にかけず生水を飲んだ。注意するよう言われた気もするが、これで腹を壊すような身体ならそもそもそこらの野鳥を丸呑みしてはいない。
それでようやく人心地ついた途端、玄関のドアが開く音がして飛び上がった。上げかけた声を抑え、戸棚の陰に隠れる。
だが、しばらく待っても誰の声もしない。足音が聞こえるでもない。いや、ドアが開いて閉まった直後に、何か妙な音がした気もする。
「……」
息を潜め、身を低くしながらリビングを横切る。玄関との境目の壁でもう一度聞き耳を立ててから、そっと玄関の様子を確かめた。
「……! おい!」
驚いて声を上げる。ドアを閉めたすぐの場所で、喪服姿のエーミールがうずくまっていた。荒い息を吐いて震えている。慌てて駆け寄った。
「大丈夫か……!」
泣いているのかと思ったが違った。助け起こそうと触れた肩が、衣服越しでもわかるほど熱い。ひどい発熱だった。ヤンがほんの少しその肩の位置を動かしただけで刺激になってしまったのか、身体を折って激しく咳き込む。──だがとても、こんな寒いところに置いてはおけない。
「……ちょっと、我慢しろ、よっ!」
自分より身長の高いその身体を何とか担ぎ上げた。寝室に連れて行こうかと思ったが、エーファが息を引き取ったあとのあの部屋が今どうなっているのかわからない。迷っているよりはひとまず寝かせなければ、とリビングに運び込んで長椅子に横たえた。ヤンの手が離れるなり、エーミールは自分の両肩を強く抱いて小さくなる。
「さ……寒、い……!」
「……待ってろ!」
暖炉の火は消えているがそれは後だ。寝室に駆け込んで右のベッドの掛け布団を引き剥がす。ちらりと見た左のベッドには、まだそこに人が寝ていた気配が濃厚に残っていた。運び出されたままのようだ。
戻って布団をかぶせると、エーミールは震えながらそれを身体に引き寄せる。ヤンは暖炉に多めに薪を突っ込んで火を入れた。うまく着火するようしばらく様子を見つつ、背後に叫ぶ。
「何か要るものあるか!」
「……だい、じょうぶ……」
かすかに返事が聞こえた。ヤンは火を安定させると、エーミールの横に戻る。顔が赤く、息は荒く、ヤンの方を見上げる目は微妙に焦点が合っていなかった。あのとき、冷え切ったエーファの部屋に座り込んでいたエーミールを思い出す。恐らくあれで風邪を引いたのだ。
「……お前、あんなんで無理するからだぞ、大事にしてくれよ……!」
「……ごめ、」
また咳き込んだ。身体の深いところから湧き上がるような重い音の咳だ。こういうときどうするのだったかと少し考え込んだが、触れてこんなに熱いのだからまずは冷やせばいいのだろうと思い、キッチンでタオルをゆすいできてエーミールの額に載せた。
「あー……」
それが心地よかったのか、彼は口を開けて微かに声を漏らした。だが少し当てているだけで、タオルはあっという間に温くなってしまう。換えに行こうとして、エーミールの唇が小さく動いたのに気づいた。
「どうした? 何か欲しいか?」
途切れ途切れにエーミールは呟く。
「……ヤン……ここに、いちゃ、いけない」
「心配すんな、俺は人間の病気にはかからねえ」
「そうじゃな……」
また咳に中断されて、エーミールが苦しそうな顔をする。
──そのときまた、玄関の方から音がした。ノックの音だ。
どうしよう、と思った瞬間、小さいが鋭くエーミールが叫ぶ。
「……! ヤン……隠れ、て!」
有無を言わさない口調だった。とっさにキッチンに入り、リビングの様子が見えるよう細い隙間を残して、ドアを九割方閉める。
「……エーミール、エーミール? いるのだろう?」
玄関の方からよく通る声が聞こえてくる。昨日、通気管越しに聞いた声のうちのひとつ。……『神父様』だ。
「……はい……っ、お入りください……!」
エーミールは答えるとまた咳き込んだ。玄関のドアが開く音がして、二人の男性が入ってくる。一人は恐ろしく印象的なプラチナブロンドの男。そうそうないほど整った顔に金縁の眼鏡をかけて、背の高い細身の身体には、神父らしい黒い服をかっちりと着込んでいた。もう一人は背丈こそ近いが装いは対照的な、ぼろぼろのデニムのジャケットを着崩した男だ。赤毛が少し掛かる頬には、目立つ大きな傷跡があった。
「……エーミール、どうした!」
神父はリビングに足を踏み入れるや否や、長椅子にぐったりと寝ているエーミールに目を留め、慌てて駆け寄って枕元にひざまずいた。エーミールが反射的に顔を布団に埋めようとする。
「……お父様……だめです、伝染ります……」
「そんなことを気にするな! ああ、なんてことだ。そんなに無理をしていたんだな、ひどい熱だ……!」
ヤンがうっかり落としてきた濡れタオルでエーミールの額を拭いてやりながら、神父はおろおろと落ち着かない動きをする。
が、ヤンはそれどころではなかった。……エーミールがたった今口にした言葉が信じられなかった。
……彼は神父を『お父様』と呼んだ。
エーミールが以前、父親が死んだと言っていたのは──あの話はどうみても絶対に、嘘ではなかったはずだ。こうして長く見てきたからもうわかるが、彼は彼なりにつらそうにあの話をしていたはずなのに。一体何故、他の人間を父と呼んだのだ。
「旦那、アントン先生呼んできますか」
「……っ、いや、まずは屋敷に移そう、きちんと温かくさせなくては!」
着崩した男に慌てた口調で応え、神父はエーミールの肩を抱く。
「エーミール、少し予定が変わったがひとまずこのままわたしの屋敷に来なさい。後で荷物は取りに来させてあげよう。まずは身体を治さなければ」
「……あ、うう」
苦しげに曖昧な返事を返したエーミールを、神父はそのまま抱き上げようとする。ヤンは思わずキッチンを飛び出しそうになって、何とか堪えた。だが止めなくてはエーミールが連れ去られてしまう。ここから見た限り、あまりエーミールがそれを望んでいるようには思えなかった。
「……うん?」
そのとき訝しげな声を上げて、着崩した男が周囲を見回した。
「何をしている、ルドルフ、手伝え!」
「……旦那、この部屋なんかおかしくないですか」
神父の視線が着崩した男──ルドルフの方を向く。その腕の中で、エーミールが顔を引きつらせた。ヤンもごくりと唾を飲む。まずい状況になりつつある気がする。
「何だと、何がだ?」
「こんな熱出してる奴が、わざわざ自分でここまで布団持ってきて寝るか、ってことですよ」
「……!?」
言われた神父が、ぐるりと部屋中を見回した。
「……つまり、少し前までこの部屋に、他に誰かがいた、と?」
「いや……いる、んじゃねえですかねえ」
ルドルフの視線が、キッチンを含めた三つのドアの方を向く。
「おい、聞こえてんだろ。出てこいよ、よそ者」
「……!」
ヤンは息を止めた。なぜ一瞬でそこまで見抜かれたのかはわからないが、ルドルフは明らかにこちらの存在を確信している。
「なんだなんだ、隠れんぼか? 探してもらわねえと出てこれねえか?」
ルドルフが嬲るように言う。
……残念ながらこのキッチンには、リビングに通じるより他に出入り口がなかった。三つのドアのどこにヤンが潜んでいるのかまではまだ知られていないにしても、どのみちすぐに見つかってしまう。
ならば、と、戸棚の内側に吊ってあった包丁から、切っ先が鋭い手頃な大きさのものを一本手に取った。エーミールがかつて笑いながら言った言葉を思い出す。
『……もし見られちゃったらそうだな、君に脅されて匿ってたことにでもしようか』
まさかあんな話、実践する羽目になるとは思わなかったが。
リビングのテーブルを回ってゆっくりと近づいてくるルドルフの機先を制し、キッチンのドアを勢いよく蹴り開ける。開いたドアと包丁の輝きにルドルフが足を止めたのを見て、なるべく悪そうに見えるように歯を剥き出して笑った。
「……んっだよ、見つかっちまったか。そうだよ、そいつに死なれちゃ困るんだ。大事な金づるで玩具だからなあ」
神父に抱え上げられかけたままのエーミールの呆然とした視線……は、努めて無視することにする。こういう形で出てしまったからには、絶対に途中で我に返る訳にはいかない。
「そいつ馬鹿だな、ババアを人質に取ったらすぅぐ言うこと聞いたぜ。自分は外に出られるのに助けも求めねえで、何ヶ月も俺を大事に大事に世話してくれやがった」
なるべく汚い語彙を。なるべく危険そうな雰囲気を。
かつていた港町で共に仕事を探していた中には、柄の悪い男も何人もいた。彼らの言動を思い浮かべて、それをなぞるように演じる。
「けどババアが死んじまったからな、次はどうして遊んでやろうかと思ってたのに、急に死にそうな顔しやがるからよ。気まぐれでこの俺が看病してやったのよ」
キッチンのドア枠に背中を預けて、枠の逆側を左足で踏んだ。
「──そういうわけだからよ、そいつを連れてかれちゃ困るんだ。てめえらが代わりに俺を一生楽して食わせてくれるってんなら別だがなあ!」
包丁をルドルフにまっすぐに向け、大口を開けてげらげら笑ってみせた。
神父が信じられないものを見るような目でこちらを見ている。エーミールはぎゅっと目を瞑ってつらそうにしていた。せめてその中途半端な姿勢をやめて下ろしてやれよと思うが、そう伝えるわけにも行かない。そして肝心のルドルフは、
「……おう、御託はそんなもんか? そっちが先に抜いたんだから文句はねえな?」
刃渡り十五センチほどの折り畳み式ナイフを懐から出し、腰を落として構えた。
扱い慣れている者の動きだ、と判断し、ヤンは意識してルドルフの全身を視野に入れる。こういうとき得物ばかりに目を取られるのはよくないのを知っていた。
ヤンの体格を測るようにナイフの切っ先を微かに動かしながら、ルドルフは言う。
「前に、エーミールがよそ者を連れ歩いてたって聞いて調べに来たんだがよ。そのときは見つからなかったが、まさかこんなに長いこと、ここでのんびり油売ってるとは思わなかったぜ。……お前を殺しても金にはならなさそうなのが残念だが、まあさしあたり正当防衛、ってことでいいよな、ジルの旦那?」
ルドルフは背後に問いかけたが、それでも当然、こちらから視線を外すことはない。
……見たところリーチでは明らかに負けている。恐らく得物への習熟の度合いでも。
ならば自分がどうするか、と言えば──
「……何だ来ねえのかゴロツキ、口だけか。待っててやってんだぜ?」
ヤンは言いながら包丁を軽く投げ上げ、空中でくるくる回して受け止める。二度。三度。それほど気の長い人種には見えない。どうにかして先に動かせる。
「……上等じゃねえか!」
叫んで飛びかかってきた瞬間に空中の包丁を掴んで手首を返す。ルドルフの顎あたりを狙い、スナップを利かせて投げた。回転しながら弧を描いたそれで注意を引いた隙に、身体を床のぎりぎりまで沈める。一番得意な姿勢だ。ルドルフのナイフの刃先だけをよく見て避けつつ地面を蹴り、滑り上がるように肘を鳩尾に打ち込む。
ぐふっ、と目の前の身体から空気が漏れる音がした。共に倒れ込みながら、ナイフを持ったルドルフの手首を横から叩いた。
一人分の肉を挟んで地面にぶつかる衝撃。先に包丁が、少し遅れてナイフが床に落ちる。ヤンは素早くナイフを拾い、ルドルフの喉に押し当てた。……うまく行った。
「……く」
ルドルフが微かに声を漏らす。
密着してわかったがそれほど鍛えられた身体ではない。あまり重いとは言えないヤンの体重でも、馬乗りの状態から形勢を逆転されるようなことはなさそうだった。ルドルフの目は怒りにぎらぎらと輝いているが、ぴたりと首に当てられたナイフを無視してまでは動かない。
「……なかなかいいザマだ、やっぱり口だけだったみたいだなあ?」
ヤンはルドルフを見下ろして、嫌らしく笑ってみせる。
だがもちろん、殺すつもりなどない。内心ではここからどうしようかと思いながら、ルドルフの敵意を退かずに受け止めるのが精一杯だ。互いに動けないまま状況が膠着、しそうになったそのとき。
「……わかった、ルドルフが乱暴な真似をしてすまない。大人しくさせるから彼を解放してもらえないだろうか、エーミールの前で血を流したくない」
静かな口調でそう呼びかけてきたのは神父だった。説教慣れしているのだろう、落ち着いて深みのある、よく通る声だ。この緊張状態でも否応なく耳に入ってくる。
「旦那!」
「黙っていろルドルフ。……遊びでも玩具でも構わない、君がエーミールを見殺しにせず看病すると約束してくれるなら、わたしにはこの場から引き下がる用意がある。もちろんそこのルドルフを連れて、だ」
「……へえ? なかなか物わかりがいいじゃねえか、神父様」
ナイフを持つ手を緩めないよう注意しながら、神父の方を睨めつけた。彼はいつの間にかエーミールを長椅子に寝かせ直して、こちらに向き直っている。彼はヤンにはっきりわかるように、大きく頷いてみせた。
「ああ、できることなら誰も傷つけたくはないのでね。……ただエーミールの体調があまり穏やかではなさそうだ、我々はここから今すぐ退去するから、せめて医者を手配することを許してもらえないか?」
「……」
金縁の眼鏡の奥の、静かだが意志の強そうな蒼い目。いい人だよ、と以前エーミールは言っていたが、実物を目の前にするとすっと腑に落ちないのは何故だろう。
……そう、そういえば、よそ者から税を取っているのはルドルフだ、と確か聞いたはずだ。今さっき彼が自分でも言っていた通り、ルドルフはかつてヤンを追って、この家を家捜しに来たはずだった。
……ならばどうして神父は、彼を伴ってこの家を訪れた?
「──こんなゴロツキを連れてきたあんたを信用しろってのは無理があるぜ、医者じゃねえ奴にも俺のことを話すんだろう。自警団とかな」
「とんでもない。我が主の御名において、医師だけに『エーミールの家に行くように』と伝えると誓おう」
神父は真剣な顔で言い、十字まで切った。それから、ああ、と大きく頷く。
「……そうだ、一生楽に食べさせて欲しいと言っていたね。それで君がこの場を収めてくれるのであれば前向きに考えよう、これはわたしだけのことではないのでいま確約することはできないが」
「は」
予想外の言葉に、ヤンは思わず目を剥いた。脚の下のルドルフもぎょっとしたような顔をしている。……もう、何がどうなればよかったのか、だんだんよくわからなくなってきた。
「……本当だろうな?」
「疑うのであれば、この件も主の御名において誓おう。必ずや叶えるとも」
「……」
ヤンは黙り込む。
妙な話だが、神父という立場の人物がそれだけのことを言うとなると、偽りではないだろう。不審には思ったが、考えてみれば神父はエーミールが寝込んでいるのを見て看病のために連れ帰ろうとしただけだから、ただただ必死に場を収めようとしているだけなのかもしれない。とはいえエーミールの十分な同意もなく連れ帰ろうとしたのはどうかと思うし、何でルドルフを連れてきたのか、どうして彼に命令する立場にあるのかがわからないが。
しばらく見つめ合った。その間、神父は一度も目を逸らさなかった。エーミールが急に身体を折って激しく咳き込んだので、むしろヤンの方が目線を外してしまう。
……彼が本当に信用できるのかどうかはわからない。だが今、できる限り早く、医者がどうしても必要だ。エーミールの容態がだいぶ悪そうなのは事実だった。
「……いいだろう、連れて行きな。ただ、こいつは貰っておくぜ」
ナイフを示して言うと、神父は頷いた。
「構わない。……ルドルフ、聞いていたな。これ以上の乱暴は許さない、おとなしく戻ってくるんだ」
ヤンはナイフの刃を納め、さしあたって自分の腰に差す。ルドルフが喉元をさすりながら起き上がって、不服極まりなさそうな顔でヤンを見た。
「ルドルフ」
神父が厳しい声を出す。
「……はいはい、わーかりましたよ」
ルドルフはひらひら手を振ってリビングの入り口まで歩き、振り返った。それを確認して神父が立ち上がり、
「エーミール、今アントン先生を呼ばせるからな。もう少しの辛抱だ」
真っ赤な顔で苦しそうにしているエーミールに小さく囁いて、同じくリビングを出ていった。