avenge

8-2.


 ヤンはふたりがそのまま玄関を出たのを確かめ、がっちりと錠を下ろした。何だかもっとしっかり閉めたい気がしたが、後でアントンが訪れるならやめておいた方がいいだろう。
「……あー、びっくりした。何とかなったな」
 リビングに戻り、エーミールの枕元に座り込んだ。エーミールはいよいよ熱が上がったのか、ぼんやりした顔で薄目を開け、ヤンを視界に捉えると、訴えかけるようなひどく切実な表情を浮かべた。
「ヤン、早く、早く逃げて……」
 咳き込む。吸い込む息が、ひゅう、と音を立てた。
「……何言ってんだよ?」
 額に手を当てた。さっきよりもなお熱い。タオルを拾って立ち上がる。
「……いいから、今すぐ、早く、遠くに……!」
「あのなあ」
 タオルをゆすいで絞って戻り、エーミールの額に当てた。うわごとに返事をすることにどれだけ意味があるのか、返事をしてはいけないのは寝言だっただろうか、などと考えながら答える。
「何言ってるのかわかんねえけどさ、いくら医者が来るったって、お前をひとりで置いてけないだろ」
 エーミールはそのタオルを跳ね除け、必死の形相で上体を起こした。
「……僕のことは素直に神父様に渡してくれればよかったんだ! 元々、僕は母さんが死んだら神父様のお屋敷に引き取られることになってたんだから!」
 予想外の事実にヤンは目を丸くした。
「……え、本当か」
「本当だよ!」
 そこで息を詰まらせ、胸を押さえて体を折るので、無理矢理長椅子に引き倒す。
「そりゃ悪かった、話は聞くからちょっと落ち着けよ。……俺はあのときお前が、連れてかれるの嫌そうにしてると思った。違ったのか」
「……それは! 君が、まだここにいたから……!」
 エーミールは悲鳴のような声を上げ、頭を抱えて布団の中に身を丸める。しゃくり上げるような音が続いた。驚いて覗き込む。──本当に泣いていた。
「ルドルフは人を殺したことだってあるんだ! あんな挑発して無事で済むわけない! ……ヤンが殺されちゃう……嫌だ、そんなのやだよ……」
 震える泣き声が布団の陰から聞こえてくる。ヤンは頭を掻いた。
「俺はあいつには殺されねえよ。……そりゃ、あんな安い手は次は通用しないだろうけどな。一対一で勝てないまでもあの程度にやられやしない。俺はここに来る前、もっと怖いのに追いかけられてたんだぞ。あんなもんじゃなかったぞ」
 あの無人島で、早々と他の仲間全員を手にかけ、ヤンを執拗に追ってきた殺意を思い出す。あれに比べれば大抵のものは対峙可能な恐怖だと思えた。
 エーミールは首を振って、徐々にかすれてきた声でなおも叫ぶ。
「それでもだめだ! 逃げて、逃げてよ!」
「嫌だよ」
 一言で切り捨てる。エーミールの様子がどんどん苦しそうになってきたからだ。これ以上興奮させておいてはいけないと思った。さっさと寝かせた方がいい。
「前にも言っただろ、俺がどこにいるかは俺が決める。お前が神父に引き取られて幸せになるならそれでいいよ。そこに俺がいて困るなら、それまでちゃんと見届けてから俺はどっか行く。お前が嫌だって言っても俺はそうするんだ。……だいたい、こんなところで放り出せないだろ。気になってしょうがねえよ」
「……」
 それを聞くと、エーミールはもはや何を言っても通らないと悟ったのか、悲しげな顔で口をつぐむと頭から布団を被って、長椅子の中央で小さくなった。その長椅子の背後の窓、薄いカーテンの向こうを、以前見たことのある人影が通る。アントンだ。
「……医者が来たみたいだから俺は鍵を開けて隠れるよ。しっかり診てもらえよ、また後でな」
 エーミールの入った布団の山を、ぽん、とひとつ叩いて、ヤンはリビングを出た。

 ◇

 ルドルフの先に立って路地を曲がると、神父はくすくすと楽しそうに笑った。
「してやられたなルドルフ、あんな子供に」
 渋面のルドルフはぽりぽりと頬の古傷を掻く。
「……あいつの伸び上がってくる速度が尋常じゃなくてね。とはいえ次があればあんな手は食わねえ、ありゃあ一発芸の類いですよ」
「そうだな。最初の一度しか通用しない子供騙しだ。……いや、実に美しい蛮勇だった。まるで雛を守る親鳥のようだ」
 神父の言葉にルドルフはぎょっと目を剥いた。
「……あれがですかい? 旦那、目は確かで?」
「お前よりはな」
 路地を抜け、分かれ道に差し掛かる。神父は立ち止まって、天を仰ぐように両腕を広げた。
「ルドルフ、あれが誘惑者──楽園の蛇の姿だよ」
 言われたルドルフは何度か目を瞬く。
「……あんたの言ってることはいつだって全然わからねえ」
「はっはっは」
 神父は軽やかに笑った後、少し待て、と言って何やらメモを書くと、それをルドルフに渡して分かれ道の反対側を指さした。
「……近いうちに意趣返しをさせてやろう。今日のところは約束通り、急いでアントンを呼びに行け。エーミールに何かあっては困る。メモに全て書いたから余計なことは言わないように」
「……へいへい」
 ルドルフは肩をすくめて、指示された道を早足で歩き出した。