avenge
8-3.
ヤンが玄関の鍵を開けてすぐさま二階に退避すると、ドアを開けて入ってきたアントンは、おや、という顔で少し周囲を見回した。しかしエーミールの居場所を神父から聞いていたのか、すぐにためらいのない足取りでリビングに入る。
「やあ、来たよお」
まっすぐ長椅子に歩み寄ると、エーミールがもぞもぞと布団を動かして顔を出した。
「……先、生……」
「うわ真っ赤。……うわすごい熱。これは体温計も要らないなあ、高熱だね!」
軽くその額に触れ、アントンは大袈裟に驚いてみせる。
「よし、寒くて嫌だろうけどちょっと胸の音聞くから、布団から手離して。……はい吸ってー、」
「……っ」
エーミールは息を吸った瞬間に身体を折って猛烈に咳き込む。アントンは小さく「うわ」と声を上げると、マスクすら着けていない顔を手で覆った。黒いぺたんとした前髪が微妙になびき、眼鏡に小さな飛沫がいくつか飛ぶ。
「……無理そうだね? うん、まあ、聞かなくてもわかるからいいよ、肺炎になりかけてるみたいだねえ」
「……」
エーミールはぼんやりとした顔でアントンの顔を見上げる。
「……僕、お父さんとお母さんのところに、行けますか?」
頼りない呟き声に、アントンは大真面目に首を振った。
「いや、ぼくが来た以上残念ながらそこまでのことにはならないねえ。あれ、いや、残念じゃないな?」
往診鞄を広げ、大きなものから小さなものまで大量の薬瓶と道具類を大雑把に取り出し、適当に床に並べる。そのうちのいくつかの薬瓶をためつすがめつして、小さめの一つを手元に寄せた。
「ここまでひどいと、いくら若い君でもまずちょっと熱下げないと体力がもたないと思うなあ。聞くまでもないと思うけどご飯食べた?」
「いえ……」
「そりゃそうだよねえ、さすがにジル君が料理までしてったとは思えない。キツめの薬を使うから少しでも何かお腹に入れよう、台所借りていい?」
「……え、まあ」
「任せて、料理は自信あるから。まあ今の君に美味しいご飯食べさせるの勿体ないんだけどねえ、どうせ味わかんないだろうし!」
矢継ぎ早の展開についていけずに呆然とするエーミールを見下ろして言い、台所に入っていったアントンは、あっという間に不機嫌になって戻ってきた。
「……食材がろくにない上に軒並み古いんだけど、エーミール君、もしかして今日だけじゃなくて何日か買い物してないし食べてないのかな?」
「……わ、忘れてました、母さんのことがあって」
エーミールの答えを聞くとアントンは天を仰ぎ、大きな口を目一杯開けて喚く。
「ああもう、そんなことだから熱出すんだよお! ご飯食べないで元気でいられるわけないだろ! 呼ぶんじゃないよそんなことで、君は患者じゃなくてただの馬鹿だ!」
地団駄まで踏んだので、エーミールは思わず布団の中に頭を引っ込めた。
ひとしきり叫び散らした後で、アントンは急に気を取り直したようにエーミールを睨み付け、髪を撫でつけると腕まくりをした。
「……まあ、ぼくも呼ばれた以上死なせやしないよ、ジル君怖いし。耳を揃えてきっちり治ってもらうからそのつもりでね、弱音は全部無視するから」
「…………はい」
その鋭い視線の先で、エーミールは居心地の悪さにもぞもぞと身を丸めた。
二階の廊下に腹ばいに寝そべって階下の一部始終を聞いていたヤンは、あまりのことにうっすらとめまいを感じた。
腕のいい医者、とは。……いや、これはこれでもしかすると腕のいい医者なのかもしれないが、大人、とは。
こんなことでエーミールは助かるのだろうか、と少し不安になるものの、アントンがいる間はヤンにできることはないだろうとも思う。せいぜい気をつけて聞いているしかない。
……その後アントンはエーミールに簡易な食事を作り、食べさせ、薬を飲ませて。
「こんなとこで寝てたら治るものも治らないから悪いけど適当に片付けたよ、はい移動移動」
寝室の左右のベッドのマットレスとシーツをざっくり全部入れ替えて、元々エーファのいた方、暖炉のすぐ裏のベッドに、着替えさせたエーミールを運んでいって寝かせ。
「今日のうちはこまめに来るからね。暖炉の管理のこともあるから本当だったらジル君ちに連れてった方がいいんだけど、ここに残るのは君のたっての希望だって言うし今日一日はぼくが様子を見てあげよう。その時点でここじゃ駄目だと思ったら移す、いいね」
「……はい……」
その上で嵐のように家を出て行った。
……物音でだいたいの状況を把握していたヤンが寝室を訪れた時、エーミールは眠っていた。顔はまだ少し赤いが、呼吸はそれほどつらそうではない。起こさない方がいいだろうと思ってその寝顔をしばらく眺める。
思えばエーミールは、エーファが亡くなるしばらく前から相当な無理をしていたようだった。むしろよくここまで保たせたものだと思う。葬儀を終えてついに緊張の糸が切れてしまったのだろう。
結局エーファのための薬は無駄になってしまったわけだが、果たして自分が薬を探しに行ったことは正しかったのか、どうなのか──彼女が寝ていたベッドに代わりに横たわるエーミールを見て、自問した。
(……あのとき本当は、一緒にいてやれたらよかったのかな)
エーミール自身の希望に応えたことに悔いはないが、この顛末を見ると少し、気が咎めるところがあった。
──『ついていてあげて』。
あのときはできなかったが、これからはちゃんとそうしてやろうと思う。それが実のところ、自分の望みでもあるのだから。
とはいえ、いつまでもここにいられるとは思っていない。エーミールにはエーミールの予定や希望があったのだろうから、それを邪魔するつもりもない。
けれどせめて、彼が元のように笑えるようになるまでは、側にいてやりたいと思った。
午後の訪問二回に加え、夜になっても宵の口と九時近くに訪れたアントンは、エーミールの容態にだいぶ不服そうな顔をしていたものの、「もう夜も遅いからしょうがない、今日はここで寝てなさい」と暖炉に思うさま薪を放り込んで去っていった。
それが実に雑なやり方だったので、後から適度に整えて火を維持できるようにし、ヤンは一晩中エーミールの枕元にいた。薬が効いているのか何なのか、エーミールはその晩、時折短く咳き込んで寝返りを打つ以外には一度も目を覚まさなかった。
……翌朝。
夜明けの頃に仮眠から目を覚まし、ヤンはキッチンに向かった。アントンが今日もキッチンに入るようだと困るので、料理を試みる気は別にない。ただ枕元の水差しの水は、エーミールが目を覚ましたときのために換えておいてやりたかった。額に当てていたタオルもゆすいでおきたいと思ったのだ。
水差しに水を汲もうとしてふと考え込む。……自分ならばともかく病人が飲むのだと思うと、もしかすると一度煮沸した方がよかったりするのだろうか。しかしそこから冷ますのはどうすればいいだろう。この時間だと外に出しておけば冷えそうではあるが、何となく不用心な気もする。とはいえ部屋の中は十分以上に温かく、しっかり沸かした湯が飲める温度まで下がるには時間が掛かりそうだ。
まるで看病という経験がないのだから仕方ないが、自分でやってみると思った以上に何もわからないものだな、と思って、水差しを前にヤンは唸った。