avenge
8-4.
「……動きましたぜ。キッチンに入った。ドアを閉めたからすぐには出ねえつもりだろう」
窓から室内を伺っていたルドルフが目配せをするのに応えて、ジルヴェスターは頷いた。
「では決行だ、準備はいいな」
「……」
懐から鍵を取り出す彼に、ルドルフは片眉を上げる。
「本当に大丈夫なんですかい、旦那。あんたがそっちで」
「ああ、問題ない。何も危険なことなど起こりはしない」
ジルヴェスターは口の端だけで微笑んだ。
「こちらの心配は要らない。お前はエーミールを安全に屋敷に送り届けることだけを考えておけ。……では行くぞ」
言うなり玄関の鍵を開け、ドアを引く。これ以上ためらうことを許さない彼の挙動に、ルドルフは覚悟を決めて中に飛び込み、まっすぐに廊下奥の寝室を目指す。それを見届け、ジルヴェスターは足音を潜めてリビングに忍び込んだ。
不意に物音がした──と思った。
リビングの方からだった気がしてとっさに振り返る。とたんにドアが開け放たれ、入れ替わりに飛び込んできた人影がヤンを突き飛ばした。
「っ……!」
棚に背中をぶつけて息が止まる。体勢を立て直す前に白い手が伸びてきて、反射的に身を守ろうとしたヤンの右手首を捉えた。手の主はそのまま身体を寄せ、ヤンを棚に押しつけるようにする。そこまで来てようやく、彼はふっと表情を緩め、金縁の眼鏡越しにヤンに微笑みかけた。
「……やあ、おはよう。一日ぶりだな」
「な……!」
見間違いようのない印象的なプラチナブロンド。整った顔立ち。……神父だった。
ヤンは目を見開く。昨夜最後にアントンが帰ってから、間違いなく玄関の鍵はかけていた。何度も確認したはずなのに。
「……何で……!」
「……ふふ、思った通りだ。やはり君は、本当は荒事に慣れてなどいない。慣れた者なら疑問を持つより先に、まず反撃をするだろう」
「っ!」
振り払おうと試みるが、神父の手は手首に吸いついたように離れなかった。奇妙な既視感を覚える。身を寄せた神父の背中越し、開いたままのキッチンのドアを通して、布団の塊と化したエーミールをルドルフが担いでいくのが見えた。
「ってめえ! 何するんだ!」
怒鳴るがルドルフは振り向きもしない。あっという間に玄関を開けて出て行ったらしい音がした。追いかけようとして右手首をきつく捻りそうになり、ヤンは大声を上げる。
「くそ、離せ! 離せよ!」
関節を極められているというわけでもないようだが、殴る蹴るをするには距離が近い。身体の前に固定された手首のせいでうまく身をよじることもできない。何とか足を踏もうとしてあえなく失敗する。
神父はヤンのすぐ頭上から、静かな声で語りかけてきた。
「……無理を言っているのは承知だが。ひとまず落ち着いてほしい」
「冗談じゃねえ、離せ!」
「君が落ち着いてくれるのであれば喜んでそうするが、今離したらルドルフを追いかけていくだろう?」
「当たり前だろ! くそっ……!」
ひとしきり抵抗するものの、近すぎて力が入らないので有効打にならない。左手で背後の棚を開けてはみたが、武器になりそうなものは見つからなかった。せめて皿が木製でなく、重たい陶器ならまだよかったのだが。
やがて諦めてヤンは動くのをやめ、満身の怒りを込めて神父を睨みつける。ふう、と神父は息を吐いた。その表情は少し沈み、眼鏡の奥の目が気遣わしげにヤンを見る。
「……ようやく話を聞いてくれる気になったかな。こちらにも事情があったとは言え、いきなり手荒なことをしてすまなかった。怪我はしていないか?」
「……っ?」
予想外の様子と言葉にヤンは眉を寄せた。神父はヤンから少し身体を離し、全身を確認するように眺める。
「さしあたって他は大丈夫そうか。こちらは……少し捻りかけていたようだったがどうだろう、痛むかな?」
彼はヤンの表情を伺いながら手首の拘束を少し緩め、自らの手で支えて軽く動かしてみながら訊いた。
「……は?」
別に痛むことはなかったがそれ以上に呆然として、ヤンは目を瞬いた。はっとして、解放された手首を身体に引き寄せる。
「……ああ、そう怯えないでほしい。エーミールを無事に保護できた以上、わたしはこれ以上何もするつもりはない」
彼はヤンに微笑みかけた。その目の飲み込まれそうな深い蒼色は平静で、今は確かに、害意を宿しているようには見えない。だがもちろんとても納得できるものではなく、ヤンはかっとなって叫んだ。
「……何なんだよ。エーミールを保護するったって、おい、こんなのねえだろ! どうしてこういうことになるんだよ!」
「言った通り、こちらにも少し事情があった。……だが君が怒るのはわかる。本当にすまない。今からきちんと話すので落ち着いてほしい」
神父は深く頷くと、改めて口を開いた。
「昨夜、アントンがエーミールを屋敷に保護するようにと進言してきた。四六時中誰かが付き添って何かあったらすぐ自分に連絡できる場所にいさせるべきだ、一人で家に寝かせておくなら今後の保証はできない、と。……アントンが『一人で寝かせておくなら』と言ったのは、つまり君は彼にも姿を見せようとはしなかった、ということだ。そうだろう?」
「……ああ、いや、確かにそうだけど」
ヤンは不承不承頷く。神父はゆったりとした口調で続けた。
「わたしは無論、エーミールが一人ではないこと、君がここにいることを知っていた。だがアントンからも隠れているとなると、恐らく一人で十分な世話をできる状況にないということも想像がついた。数ヶ月も隠れていた君なら、目に付くところのものを不用意に動かさない習慣くらいはついているはず。それはつまり、必要なものを必要なときに取りに行けない可能性がある、ということだ」
「……まあ、それは確かに」
ヤンは自分で水道に置いた水差しを振り返る。元の場所に寸分違わず戻そうと思っていた、のはまあ事実だ。アントンの目がそんなに確かかどうかは疑わしいとは思ったが。
「もし君がそうだとすれば、アントンの進言を容れた方がいい、とわたしは考えた。エーミールはわたしにとって大事な相手だ、彼に万一のことがあっては困るんだ。君が人から隠れることを優先し、必要なときに助けを呼びにいけないとしたなら尚更だ」
「……」
言いたいことはあるが確かに、何かあったときに人を呼びにいく判断と決断が自分にできただろうか、と言うと黙らざるを得ない。ヤンのじっとりとした目線を神父は受け流しつつ、一つ息を吐いた。
「……だが昨日の様子を見るに、エーミールがこの家にいる状態で君を説得するのは困難なように思えた。わたしは昨日の時点で、部屋の様子からみて君は邪悪な存在ではないと確信していたが、その君が彼を守るためにはあれほどのことをしたのだ。そう容易く交渉に応じるとは思えなかった」
「……!?」
はっとしてヤンは神父の顔を見た。
……あれが演技だとばれていた? 昨日あの場にいる時点で?
ルドルフ相手に暴力沙汰を起こしていたあのとき、既に?
「……暖炉の火はうまく整えられていて、テーブルクロスにも皺一つなく、床に目立つゴミの一つも落ちていなかった。布団を長椅子にかぶせているのが不思議だったが、あれは寝室がまだ片付いていなかったからだろう。エーミールが自分でできなかったのだとすれば、あの部屋はエーファを運び出したままになっていただろうから」
神父はドア越しにリビングを一度振り返ってから、ヤンの方に目を戻して微笑んだ。
「どう口調を取り繕ったところで、暴れてみたところで、そんな部屋に住んでいる者が危険な荒くれ者であるとは、わたしには思えなかった。……ただ仮に、わたしとルドルフが同じように家を訪れたとしたら、今日も同じような展開になるだろうという予測もついた。他の誰かでもそう状況は変わらないだろう、とも思った。……そこでわたしは、合鍵を使うことにした」
「……合鍵」
目を瞬くヤンの目の前に、神父は実際に鍵を差し出して見せた。
「この家はエーファとエーミールのもので、わたしはエーミールの後見人だ。合鍵くらいは預かっているよ。……さしあたって君を押さえ、エーミールを先に保護し、それから君と話をする。これがもっとも問題のない手順だろうと考えた。そのためにはどうしても人手が最低二人必要だが、他の誰かを使おうとすると少々説明が手間だったので、もう一度我々二人が来た、というわけだ」
「……」
ヤンはきつく眉を寄せて考え込む。
昨日確かにエーミールは、本来なら神父の家に引き取られるはずだったのだから素直に渡してくれればよかったのに、と言っていた。元々そういう合意があったのなら、神父がエーミールを保護しようとするのは不思議ではない。彼が昨日、しきりにエーミールを気遣っていたことも思い出した。
だがしかし。
「……何でルドルフを連れて?」
「友人だからだ。ああ見えて頭が回る男だし力仕事は任せやすいので、昨日はエーミールの荷物を持たせようと思って連れてきた。エーミールが寝込んでいたのでなければ、昨日の時点でわたしの屋敷に移ってもらおうと思っていたからね。近いのですぐに取りに来られるとは言え、最低限手元に必要なものもあるだろう」
「……友人……」
ヤンはだんだん混乱してきて、がりがりと頭を掻いた。
「あいつ、よそ者に嫌がらせしてるって聞いたぞ?」
「嫌がらせというと少し違うが……そうだな、確かに彼はよそ者から金を巻き上げていた時期があった。……ああそうか、君はそれでエーミールに匿われていたわけか。彼だって子供から無理に金を取ったりはしないだろうから、心配しなくてもよかったのに」
「子供じゃねえけど!?」
反射的に声を上げながらヤンは首を傾げる。
どうもエーミールが言っていた話とは少し違う気がするが、いまいち細かいところが思い出せない。ただ確かに、『ルドルフに言うことを聞かせられるのは神父様ぐらい』とは言っていた気がする。
「だが最近は、彼のそんな姿も見ない。そもそもよそ者自体がほとんど入ってこないからだ。……寂しい話だとは思うが、何も彼一人のせいでもないだろう。この町は正直に言って、今のところあまりうまく行っていない。あえて街道から離れてまで訪れるほどの町ではない、ということだろう……」
神父は下唇を噛んで、少し俯いた。眼鏡の反射でその表情が一瞬、隠れる。
「わたしも色々と努力はしているのだが、なかなか実らなくてね。……ああ、いや、すまない。これはこちらの話だ」
「……」
確かに町があまり順調ではなさそうなのは感じていたので、どう応じていいのか逆に反応に困る。とりあえず一旦置いておくことにした。
「……子供からは金を取らないだろうって言うけど、ルドルフは前に、俺を探してここにきたはずだよな?」
少し考え込み、やや話を戻して問うと、神父は首を捻った。
「その辺りは彼のことなので、わたしに聞かれても困るのだが……まあ、本当に子供かどうかは会って話してみないとわからない、ということではないだろうか」
「……まあ、それもそうか」
ヤンは思わず、うーん、と声を漏らす。
こんな目に遭ったのにいつの間にか納得してしまいつつある……が、何かもう一つ引っかかりがあるような気がする。何だっただろう。確か昨日だ。昨日の流れの中で、何か。
場面を遡るように思い出し、やがて思い当たった。
「……じゃあそれはいいけど、もうひとつだけ聞いとく。何でエーミールがあんたを『お父様』って呼ぶんだ? あいつの親父は死んだって聞いてるぞ」
「……!」
そう質問した瞬間、神父の表情が急な苦痛に歪んだのをヤンは見た。彼は口を押さえてよろめき、流し台の縁に手を突いてどうにか立ち止まる。幾度か頭を振り、息を整えて、ようやく彼はヤンの方を見た。
「……すまない、取り乱した。そうか、エーミールは君にそんな話まで。……そうだ、彼の父親は三年前の冬に亡くなっている。……わたしにとっても大事な友人だった。あれはひどく……痛ましいできごとだった……」
これまでの話しぶりとは違い、彼は途切れ途切れに呟いた。俯くとつらそうに眉を寄せ、額を押さえ、しばらく目を閉じてからやっとまた顔を上げて、続きを口にする。
「……もちろんわたしは彼の父親ではないし、『お父様』などと呼ばれる資格は本来ないと思っている。彼の本当の父親は皆からの人望も厚く、町の中心人物と言って差し支えない存在だったのだから。……だからエーミールにそう呼ばせているのは、わたしの勝手な押しつけだ。父親の代わりになどなれないが、彼にそう呼ばれるたび、わたしは彼の将来を必ず守り育てていこうという決意を確かめている……」
「……」
ヤンは思わず目が潤みそうになるのを感じて、慌てて瞬いた。……エーミールの父親の死でこんなにも苦しんでいる人間がここにもいたのだ、と思う。
「……わかった。つらいこと聞いて悪かった」
「……いや、その話を知っていたなら当然疑問に感じるはずのことだ。仕方がない」
まだ痛みの余韻を感じているような表情で神父は頭を巡らし、ふと外光の入る曇りガラスの窓に目を留めた。
「……ああ、もうすぐ朝の礼拝の時間になってしまうな。君にも大体のところはわかってもらえただろうと思う。この先の話をしよう」
一度深呼吸すると、彼はもう一度まっすぐにヤンを見た。
「さしあたってエーミールはわたしの屋敷で預からせてもらう。ここに留まらせればアントンの負担になってしまうのでね」
……まあ話はわかった。確かにここにいるよりもその方がエーミールのためだろう、少なくとも身体が回復するまでは。
だがそれだと自分は、と問おうとしたヤンの表情を見て、神父は微笑んだ。
「……だからもしよかったら、君も屋敷に来るといい」
「……!」
ヤンは目を見開いた。神父は苦笑する。
「驚くことはないだろう。そのつもりでなければ、こんなに丁寧に説明などしていない。本当なら礼拝の前のこの時間、わたしも教会の掃除をしていなければならないのに、無理を言って抜けてきたんだ。……『一生楽に食べさせる』とまでは言えないが、それなりの待遇を約束する。君のことは、エーミールが信頼して側に置いていた大事な友人なのだと思っているからね」
「……頼む! ……あ、いや、お願いします!」
ヤンはとっさに頭を下げた。
「もちろんだ。共にエーミールを大事に思うもの同士、仲良くしていこう」
親しげな笑みを浮かべて答えながら、神父はふと考え込むような顔をする。
「……ああそうだ、忘れていた。ルドルフの件があったな。彼にも話しておくので心配しなくていい。もしよければ後ほど引き合わせるので、互いに誤解を解いておくといいだろう」
「わかりました!」
大きく頷いたヤンの顔を見て、神父はふふ、と笑った。
「……ああ、本当に君は感情がよく顔に出るな。エーミールが君を側に置いた理由がわかるようだ。裏表のないところが安心させてくれるのだろう。……では、行こうか」
先に歩き出した神父を追いかけようとして、ヤンは玄関で足を止めると、一度鞄を取りに戻る。既にドアに鍵を差して待っていた神父に頭を下げ、家を出た。
昨日、エーミールがあれほど必死に『逃げろ』と伝えたことなど、頭の片隅にも上らなかった。