avenge

9-1.


 誰が神など信じるものか。

 ◆

 ここ数日のことは、あまりよく覚えていない。
 言われたとおり味のわからなかった少量の食事のあと、アントンが匙で飲ませてきた薬は、なるほど確かにひどく苦かった。けれども吐き出すような元気もなくて、しばらくは口中に苦みを感じたまま、ぐったりと枕に身を預けていた気がする。
 それからとろとろとした眠気が襲ってきて、まだアントンがいるうちに、耐えきれず眠りに落ちた。
 途中幾度か、うっすら目を覚ましたことがあった気はする。暑いと思ったときもあったし、寒いと思ったときもあった。寝台がひどく揺れるような気がして瞼の裏でおののいた覚えもある。だが大半の時間は色鮮やかな、とりとめのない夢の中にいた。時折目を開けてもすぐに瞼が閉じてしまった。身体の奥から湧き出してくる重い疲労は、まるで尽きることを知らないようだった。
 ──かなり長いことそんな時間を過ごして、やっとまともに目を開けたとき見えたのは、天井でなく柔らかそうな布の天蓋の内側だった。
「……え」
 間抜けな声を出した喉はもうそれほど痛まない。熱も大方は下がっているようだ。声に反応して、近くにいた少女がはっと手元から顔を上げた。……そこにいるのは茶色い髪に明るい翠の瞳の、まだ年若い、黒いワンピースの上に白いエプロンとブリムをつけた……メイド?
 何故メイドが枕元に、と疑問に思っていると、彼女が声を上げた。
「やっと目が覚めましたかー! すぐにジルヴェスター様……あ違った、旦那様をお呼びしてきますね!」
「……!」
 その名を聞いて、急激に意識が覚醒する。
(……寝込んでる間に屋敷まで運ばれたのか!)
 メイドが慌ててドアを開け、小走りにどこかに行くのを見送って、なんとか上体を起こした。力の入れ方がわからないような変な感じだ。一体何日眠っていたのだろう。姿勢を変えるとまだ少し頭がふらふらして、柔らかなベッドにもう一度、少し横向きに倒れ込んだ。
 ほどなく、かなり早足の足音が聞こえてくる。ドアが開いた。
「エーミール、よかった、目が覚めたのだね!」
 歓喜の笑みを浮かべる神父──ジルヴェスターに、弱々しく微笑んでみせる。
「……ぁ、お父様……ご心配をかけました……」
 起き上がろうとするが、向きを変えたせいか今度は腕が身体を支えてくれない。わずかに身をよじることができただけだ。
「ああ、無理をするな。五日も眠っていたのだから、急には動けないのが当たり前だ」
「五日も……」
 驚いたものの、それほど不思議でもない。その間誰にどんな世話をされたのか、さっぱり覚えていないのが割と怖いが、案外そんなに眠れてしまうものなのだな、と思う。そう、何日も眠って身体を癒やすのは、実は生き物の共通した仕組みなのに違いない──
(……!)
 その瞬間に連想されて脳裏に閃いた顔に、一瞬息が詰まった。そのせいで小さく咳き込む。だが咳は浅く、長引かず、もう胸の痛みも感じない。
「……まだ咳が出るのか。苦しいかな? アントンを呼ぼうか?」
 心配そうに顔を覗き込んでくるジルヴェスターと目線が合って、幾度か瞬く。
「いえ……もう、ちっともつらくないので大丈夫です。それよりお父様、あの、僕……お腹が空きました……」
 恥ずかしい、というように目を逸らしてぼそぼそと言う。それを聞くとジルヴェスターは破顔した。
「ものを食べたいと思えるようになったなら大丈夫だな。すぐに持ってこさせよう。だが残念ながらいまは粥からだよ、早くよくなりなさい」
「……はい、ありがとうございます」
 頭を撫でられて、困った顔で笑った。
 ベッドの上に元通りに寝かせられたあと、粥の手配のためにと部屋を出て行くジルヴェスターを見ながら、今は何時頃だろう、と考える。部屋の中に時計はなく、窓の向こうの明るさを見ると……どうやら午前中、だろうか。
(──今はとにかく、体力を戻さないと。焦っちゃいけない)
 布団の上に出した手を握ったり開いたりしてみる。問題はない。指先が冷えているのは多分、長く食事をしていないからだ。
(……ああ、でも。ヤン……家にはヤンがいてくれたはずなのに、どうして僕をここに攫ってこれたんだ……?)
 この際自分のことはいい。この場に来る前に準備ができなかったのは痛いが、それならそれで何とかできるだろう、体力さえ戻れば。
 だがルドルフに対してあれだけの行動に出たヤンが、仮にルドルフ抜きで交渉されたとしても、素直に自分を渡したとは思えなかった。あのあと急にヤンの気が変わって無事に逃げたのならそれでもよかったが、その可能性もまずないような気がした。
 ルドルフには殺されない、と言った彼の言葉を信じていないわけではないが、何しろ自分は何も覚えていない。最悪の想像が脳裏を掠めて、ぎゅっと目を瞑る。
 ……怖い。
 ちゃんとできるはずだったのに。そう思ったからこそぎりぎりまで側にいてもらったはずだったのに。
 どうしてあのとき熱など出して、きちんとあの手を離せなかったのだろう。
 頭を抱えて俯いていると、ノックの音がした。
「入りますー、お粥ですよー。……あっ、どうしたんですか大丈夫ですか!?」
 先ほどのメイドだった。手にした盆の上の皿から、香りのいい湯気が立ち上っている。
「……ちょっと目眩がしただけです、大丈夫」
 不安を振り払って笑いかけてやる。メイドはほっとしたように歩調を緩めて近づいてきた。
「まだ無理は駄目ですよー。アントン先生も今夜もう一回来るらしいです。あなたに何かあると私が叱られちゃうので、安静にしててください」
 にっこり笑って、彼女は盆ごと差し出してくる。
「ご自分で召し上がれますか?」
「……っ」
 問われた瞬間、急に視点が入れ替わったような奇妙な感覚に襲われた。病床の母に毎日そう問いながら食事を差し出していた記憶が鮮明に蘇る。
「……え、あの、大丈夫ですか。やっぱりアントン先生すぐ来てもらった方がいいですか」
 訝しげに問われ、勝手に頬を伝った涙に気づいて慌てる。
「いやいやいや何でもないです、ごめん、ごめんなさい。……母さんに毎日そうしてたなって思ったら、ちょっと。自分で食べられます、大丈夫」
 ……いやだめだ、全然大丈夫ではない。ここまで来てこんなに不安定な気分に陥るとは思わなかった。それもこれも大体全部ヤンが気がかりなせいだ。
「……エーミールさん、長いことお母様を看病していらしたんでしたっけ。それはご愁傷様でした……」
「……いえ」
 短く答え、薄い粥に匙を沈める。最初はたくさん食べない方がいい、と彼も言っていた。すると病人食というのはあのとき、割と正解だったのかもしれない。
(……いや、それは、いいから)
 頭を無理矢理切り替えた。匙を口に運ぶ。乾いた口内に水気が広がり、薄いとは言え塩味を久しぶりに感じて、思わずほう、と息を吐いた。染み通る。
「……美味しいです」
「あ、よかった。ご飯の味がわかれば大丈夫ですね!」
 メイドはぱっと顔を輝かせて両手のひらを合わせる。……自分とそう変わらない年齢に見える。勤め始めたばかりだと思うが、この他人との距離感でこの仕事ができるのだろうか、と少し心配になった。
 粥を食べ進める。穀物だけの甘みが優しい。それほど経たずに食べ終え、盆と皿をメイドの手の方に差し出した。
 ──そのときふと、複数人の楽しそうな笑い声が耳に入った。窓の外からだ。
(!?)
 ぎょっと動きを止める。
「い、今のは」
「? あ、お隣の救貧院の孤児の子たちの声ですよー。このお部屋からだとちょっと近いので……うるさいようだったら言いに行きますけど」
「いや、それはいいんですけど……」
 少し考え、耳を澄ます。部屋に近づいてくる足音はない、ここには自分とメイドの二人きりだ。
「……すみません、少し手伝ってもらってもいいですか? 外が見たい」
 メイドは整った眉を寄せた。
「……いいですけど、大丈夫ですか? 私本当に、あなたに何かあると困るんですけど。転んだりとか」
「絶対に君に迷惑はかけないと約束します」
「……はい、それなら」
 不承不承といった様子でメイドが体勢を低くする。エーミールはベッドから両足を下ろし、彼女の肩に少し体重を預けて窓を目指した。身体の芯がふらふらする。ほんの数歩の距離だが、手伝わせてよかった、と思う。
 光のよく入る大きめの窓だ。二階なので見晴らしがいい。やや離れた右手に屋敷の前にある教会、すぐ左には教会に敷地を接する救貧院の庭が見える。
 ……息が止まるかと思った。
 十かそこらの子供たちがきゃあきゃあと笑いながら庭を駆け回っている。彼らより少し背の高い、青灰色の髪の少年が、わざとらしく腕を振り上げて笑い声を上げながらそれを追いかけ回していた。──見間違うはずもない。ヤンだった。
(……いや、何で!!?)
 思わず力が抜け、窓枠に崩れかかる。隣で支えていたメイドがぎょっとして腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと! 気をつけてくださいよー!」
「ご、ごめん」
 こちらも慌てて少し身体の向きを変え、窓のすぐ横の壁に背中を当てるようにもたれかかった。何度か深呼吸する。
「……ああ、歩くの結構大変だな……」
 全く違うことを考えながら、ごまかしを口にした。
「当たり前ですよ、こんなに寝てたらいきなり動けなくって当然です! もう、病人の言うことを聞いた私が馬鹿でした! 手伝いますから怪我する前にさっさと戻ってください!」
 目の前で怒っている彼女を見ながら、やっと思考が正常に働き始めるのを感じた。正直安心しすぎて逆に腹が立ってきたが、とりあえずそれはいい。いまいち状況がわからないとはいえ、ヤンが無事なら問題はないのだ。……となれば、まずは。
 エーミールは彼女を見て微笑んだ。正確には、彼女のワンピースのポケットを。
「……君、名前は?」
「……ユーディットですけどそれが何か。ほら早く、ベッドに戻りますよ!」
 彼女は頬を膨らませたまま答えて、エーミールの手を引こうとする。
「そう、ユーディット。……僕たちは初対面だと思うけれど、君は口が固いはずですね?」
「……え?」
 彼女の手が、エーミールに触れる直前で止まった。立っていると頭半分ほどの身長差がある。訝しそうに見上げてきた。
「どういうことですか?」
 ……かかった。
 笑みを深めて、声を低くする。
「僕が今、少し無理をしてでも外を見ようとしたことを君が黙っていてくれるならば、僕も、先程君が僕そっちのけで夢中になっていた金時計のことを黙っていてあげるよ、ということです。あの時計、お父様のものですよね」
「!」
 ユーディットが凍り付く。
「み──見てたんですか。寝てると思ったのに」
「一応ね」
 にっこりと笑いかける。
 目を覚ましたとき、彼女が慌ててそれを隠したのを見た。一瞬だったが見逃さなかった。
「僕は時々この屋敷に招かれるのに、君とは初対面だ。ならば君は勤め始めて日が浅いはず……なのに既にそんなものを持っているとなれば、盗みの常習者ですよね。お父様は最近別の時計を買われたからそれはもう使っていないけれど、それでも、新人のメイドにそんな高価なものを下げ渡したりすることはない」
 自分に伸ばされかけていた手を、逆に掴んで引く。たいして力を入れられなかったのに、ユーディットはバランスを崩してエーミールにぶつかった。すぐ近くに来た耳元に囁いてやる。
「……どうですか。僕としては、君は恐らく口が固いはずだと思いますが」
 至近距離で見上げる形になったユーディットが、動揺しきった顔で首を振る。
「いっ、言いません! 絶対誰にも言いません!」
「それはよかった。ならば僕も黙っています。……僕たちは仲良くできそうですね、ユーディット?」
「……は、はい……」
 呆然とした顔で頷く彼女に、エーミールは困った顔で笑ってみせた。
「……でも今はとりあえず、ベッドに戻らせてください。やっぱりまだ、動くと結構つらいです」
「は、はーい!」
 ユーディットの手を借りてベッドに戻ると、エーミールは目を閉じた。まだつらいと言うのも嘘ではない。いまいち自分の身体に実感がなくてふわふわしているし、縦になっているだけで疲れる気がする。
 早いところ体調を戻さなければならない。……だが、今はこれでいい。
 やっと曇りなく先のことを考えることができる、と安堵して眠りに落ちた。