avenge

9-3.


 エーミールとの再会が叶ったのは、翌日の午前中のことだった。
 ヤンは神父に連れられて屋敷の本館に入り、二階に上がる。南北に長い建物の、端ではないがだいぶ北寄りの方に位置する部屋のドアを、先に立った神父が叩いた。
「エーミール、入るよ」
「はい」
 静かな声が返ってくる。神父が先に部屋に入り、ヤンを招き入れた。エーミールはベッドの上で上半身を起こしていたが、ヤンの姿をその目で捉えるなり、声も上げずにベッドから飛び降りて駆け寄ってきた。抱きしめられる。
「うわ、ちょ」
「……ヤン、よかった、無事で……!」
 身体の輪郭を確かめようとするかのように強く抱擁され、ヤンは目を白黒させた。
「お、落ち着けよ、大丈夫だから」
「だって君がルドルフに喧嘩なんか売るから、それから姿が見えなかったから、もう、もうすっかり、やられちゃったのかと思って……!」
「あの程度に殺されないって言っただろ!」
 照れくさくなってきて、ヤンはエーミールの身体を押しのける。顔を見上げた。
「……よかった、お前も元気そうで。ちゃんと治してもらえてよかったな」
 エーミールがうっすらと涙ぐむ。二人の様子を見守っていた神父が、苦笑しながら声をかけてきた。
「やれやれ、すっかり邪魔者だな。だがそこまで喜んでもらえるなら、連れてきた甲斐があったというものだ」
「お父様!」
 その存在を忘れていたかのように、エーミールが声を上げる。
「あの、僕、よく覚えていないのですが……お父様、一体どうやってヤンを説得したんですか? 梃子でも動きそうになかったのに」
「たいしたことはしていない。あのとき彼がルドルフと争っていたのが、本当はお前を守るためだったのではないかと思い至ってね。翌日改めて訪れて、エーミールと一緒に屋敷においで、と伝えただけだ。彼は余所から来た人間だが、お前の大事な友人なのだろう?」
 神父はふふ、と笑って答えた。……まあ確かに大筋ではそうだが、ちょっと略されすぎの気もするな、とヤンは思う。エーミールはあのとき、自分が無理矢理連れ去られたことは知らないらしい。
「ルドルフにもその旨伝えてある。……ああ、ヤン。言い忘れていたがナイフは既に彼に返してある。君が問題なければ後で会わせよう、一度直接話しておきなさい」
 神父はヤンに顔を向けた。ヤンは頭を下げる。
「あ、すいませんありがとうございます。……そういうことだから、今はここでちょっと雑用とかさせてもらってる。元気になったんだったらまた一緒にいられるな」
「……そうだね」
 エーミールは微笑んで、神父を見上げた。
「……あの、お父様、少しだけ。少しだけ、ヤンと二人で話をさせてもらえませんか?」
「ああ、そうだね。わたしがいてはしづらい話もあるか。……では、わたしは少し席を外そう」
 神父が部屋を出て、ドアを閉める。エーミールはそのドアを数秒の間じっと見つめると、ヤンを引っ張ってベッドに座らせた。
「……本当に心配したんだよ。無事でよかった」
 ヤンの両肩に手を置いて、エーミールが深々と息を吐く。ヤンは大袈裟な、と思いながら笑った。
「そりゃこっちの台詞だよ……ちゃんと治っててよかった」
「アントン先生は腕のいいお医者様だって言ったでしょ。……でもあの薬は本当に不味かった。先生があんな顔して言うだけのことはあった」
 苦笑しながらエーミールが言う。そして急に、声量を落とした。
「ちょっと静かにして」
 口で言うだけに留まらず片手でヤンの口を塞いで、そのままぐっと身を寄せる。
「……君は信じやすすぎる。もっと周りのことをよく見て疑って。今言えることはそれだけだけど、お願いだからもう二度とあんな無謀なことはしないでほしい。見てるこっちは心臓がいくつあっても足りないよ。できれば正体も、隠しておいて」
 大きな声は出さないでね、と囁きながら手を離された。ヤンはエーミールの顔をまじまじと見る。
「……どういう意味だ。俺、何か間違ってるか?」
「……」
 エーミールはひどく微妙な顔をして考え込んだ。
「……いや……今のところはまだ大丈夫、だと思う。うまく言えないんだけど……こうなるはずじゃなかったんだよ。ここに引き取られたら最後、二度と君に会えることはないと思ってた。まさか君もここにいるなんて」
「神父さんが『エーミールの大事な友達なら』って連れてきてくれたんだぜ?」
 エーミールはそれを聞くと、少し厳しい顔をした。
「あの人に何を言われたか知らないけど、本当に気をつけて。はっきり言って僕にもあの人の意図がさっぱりわからない。……一体どうしてなんだろう……」
 妙な言い回しにヤンは首をかしげる。
「……『神父様はいい人』じゃなかったのかよ?」
「……いい人だよ、優しい人だ。どういうわけか僕にだけ、ね。君に親切なのもその延長、ということならいいんだけど。……とにかく、何だかおかしいんだ。本当に気をつけて」
 エーミールは俯き、下の方を睨むようにする。ヤンはその感情を捉えあぐねて、何度か瞬きをした。
「……そうか、わかった。……あ、今更だけど、母ちゃんの薬、俺まだ持ってるんだ。金も、要らないって言われたから全部持ってる」
「ああ、それはもう少し君が預かっておいて。今の僕には隠しておける場所がない」
 エーミールは顔を上げた。
「それとね……僕もここに引き取られた以上、前のようにのんびりはしていられないんだ。悪いけどあまり会えないかもしれない。できるだけ時間は作るけど。……何か聞きたいことはある?」
 ヤンは少し考えてみたが、いや、と思って首を振った。
「……山ほどあるけど、どうせ教えてくれないだろ?」
「あはは、そうかもしれない」
 エーミールは笑って立ち上がり、少し身体を伸ばしてみせる。
「だいぶ動けるようになってきたよ。そういえばヤンが言ってたとおりだった、具合が悪くて絶食してると、最初から形のあるものってあまり食べられないんだね」
「そうだろ?」
 苦笑して、ヤンもベッドから立った。
「じゃあ、またそのうち来る。しっかり身体治せよ」
「うん、ヤンも気をつけてね」
 手を振って別れた。
 ヤンがドアを開けると、すぐ横で神父が壁に寄りかかって待っていた。
「話は終わったかな。本当に仲のいいことだ」
「ああ、親友だからな!」
 ヤンは笑う。神父も微笑み返すと、片手に携えていた封筒を渡してくる。
「さて、遅くなってしまったが東の外れにある学校への届け物を頼む。もし道がわからなくなったら、誰かに『分校に行きたい』と言えば教えてくれるだろう。教師のハンスかニーナ、どちらかにこの封筒を渡してサインをもらってきてほしい。戻ってきたら、また夕方まで救貧院にいてくれても構わない」
「わかりました!」
 ヤンは廊下を走り出そうとして、
「……ああそれと、廊下は走らないように」
 背後からの声に諫められて、全力の早足になった。

 その日の残りも、またその翌日も変わった仕事はなかったようで、ヤンは救貧院にいた。考えてみれば当然のことで、ヤンがここに来る前にも十分に屋敷の仕事が回っていたのだから、基本的にヤンの手は余るのだ。楽しいことは楽しいが、世話に気を回すでもなく本当に子供たちと遊んでいるだけなので、それで食べさせてもらっていると思うと少し後ろめたくはあった。
 ここではなくエーミールの家にいれば、適当な獲物を持ってくるとか、何かもう少し役に立っている気のすることができたのだが。……しかしまああれが本当に役に立っていたかというと、微妙ではある気もした。エーミールは喜んでくれていたと思うが。
 すっかり打ち解けた子どもたちに今日は隠れんぼを要求されて、木に顔を伏せて目をつぶり、数字を数える。
「一、二、三……」
 ……ただ、気がかりなことがもうひとつ。
 なぜか今日は、すごく眠い。
「……十九、二十、二十い……」
 目を閉じているだけで時々意識が飛ぶ。額を幹にぶつけ、はっとして自分で自分の頬をつねり、何とか数え続ける。
「……三十六、三十七……」
「何して遊んでるの?」
「っっ!?」
 必死で数字に集中していると、突然声をかけられた。ぎょっとして振り返るとすぐ側で、大きめの鞄を持ったエーミールがにっこりと笑う。
「ごめん、ヤンがここにいるのが門から見えたからつい。邪魔した?」
「……まあ、別に大丈夫だ」
 数字は忘れたが、もうすぐ六十、になるとは思う。
「今日は隠れんぼだってさ。まあ、何やってても俺が鬼だけどな」
「まあそうだろうね」
 エーミールは苦笑する。
「……今、家に行って荷物を引き上げてきたんだ。まだ残ってるものはあるけど、とりあえず大事なものは大体」
「そうか……」
 エーミールはそれほど寂しそうな顔もせずにいるが、自分が勝手になんだか辛くなってしまう。
「……何かできることがあったら言ってくれよ。俺、結構ここにいるから」
「うん、ありがとう。……それじゃ、ルドルフを待たせてるからもう行くよ。子どもたちも待ってるだろうから、早く探してあげて」
 邪魔してごめんね、と手を振りながらエーミールが門の方に戻っていく。しばらくその背中をぼうっと眺めてから、ヤンは両手で自分の頬を叩く。
「ごめんな、ちょっと遅くなった! 探すぞー!」
 大声を上げてから、子どもたちを探し始めた。