avenge
9-4.
その翌日。
天蓋付きのベッドで目を覚まし、エーミールは身体の調子を確かめるために軽いストレッチを始めた。
昨日から外に出て活動することができるようになり、やっと家の荷物を取りに行くことができた。そうは言ってもこの屋敷に来てからは着るものを与えられているせいもあって、それほど持ち出すものもなかった。
その荷物を持ったままで昨日会ったヤンの、茫洋とした表情を思い出す。木に頭を寄せて何かしていると思ったら、いきなり力が抜けて転びそうになったようだったので、心配して見に行ったが。
(……やっぱりここは、ヤンには向いてない)
わかりきっていたことだったが、やはり彼にはもっと早い段階で去ってもらうべきだった。恐らく、人の顔色を気にして暮らすようなことは初めてなのだろう。自覚のないうちにひどく疲労しているように思えた。共に笑っていたことを容易く思い出せるだけに心が痛む。あるいは自分が言った言葉も、彼の負担に拍車をかけているのかもしれない。
──『もっと周りをよく見て、疑って』
彼は絶対にそういうことには向いていない。恐らく他者を疑う必要のない環境で育ってきたのだろう。それは悪いことではないが、今この状況でどうかというとあまりよいとはいえない。ここでは誰もが本音を隠しているのだ、エーミール自身も含めて。
……とはいえ、彼のことを自分でずっと見ているわけに行かない以上、注意はしてもらうに越したことはないのだが。
大きく伸びをして、四肢にしっかりと血が巡っていることを確認する。体調はここ数年にないほどいい。一時はひどく後悔したものだが、こうなってみるとむしろ、寝込んでいてよかったような気さえする。
廊下に出ると、たまたま部屋の前を通り過ぎようとしていたらしいジルヴェスターがふと足を止めた。
「ああ、エーミール。おはよう。ちょうどよかった、食事が終わったらわたしの部屋に来なさい。話がある」
「はい、お父様」
返事をして、すれ違ってから首をかしげる。ジルヴェスターの表情からすれば、別に怒られそうな雰囲気ではなかった。どちらかというと彼は、嬉しそうに見えた。
(……何だ?)
思い当たる節は特にない、と思うのだが。
考え込みながらエーミールは食堂に行き、食事を取った。まだ生活サイクルを整えるところまで手が回らず、家で暮らしていたときと比べると起床時間が遅い。数日のうちには夜明けに起きられるように戻りたい、と思う。
食事を終えて身支度をすると、エーミールはジルヴェスターの執務室に向かった。
執務室にはジルヴェスターと共に、優しそうな笑みを浮かべた老年の聖職者がいた。エーミールが頭を下げると小さく会釈を返してくる。頭の上が大分涼しそうな人だな、とつい思う。ジルヴェスターが口を開いた。
「エーミール、こちらはアーデルベルト神父。今度お前を預けようと思っている寄宿学校の主幹だ」
「よろしく、エーミール」
アーデルベルトは手を差し出してきた。
「……! 初めまして、アーデルベルト先生。エーミールです」
瞬間走った動揺を飲み込み、微笑んでその手を取る。
「十五歳だと聞いていますが、大人びたお子さんですねぇ」
「ええ、彼はとても利発なのです。……それでは主幹、よろしくお願いしますよ。主のご加護がありますよう」
ジルヴェスターが十字を切って言った。アーデルベルトが応えたようだったがそれをまともに見ている余裕がない。
「……え、よろしくって、あの、お父様? お父様? い、今からですか?」
「いえ、さすがにそこまで急なことは言いません。三日後に改めて迎えの馬車で来ますから、それまでに準備をしておいてくださいね、エーミール」
ジルヴェスターの代わりにアーデルベルトが、穏やかな口調で告げた。
「……は、はい」
「それでは私はこれで」
エーミールの手を離すと、アーデルベルトは部屋を出る。エーミールは呆然と手を見下ろした。
……三日後?
そんな馬鹿な。いくら何でも一ヶ月はここにいられると思っていた。
「……アーデルベルト神父は細かく気配りのできるいい方だ。きっとお前を正しい道に導いてくださる」
ジルヴェスターの声が耳に届く。無駄とは知りつつ、エーミールは食い下がろうとした。
「……そんな、僕はてっきり、しばらくのうちはお父様の下で勉学に励ませていただけるものと」
「エーミール」
ジルヴェスターは諭すような声で言うと、執務椅子から立ち上がってエーミールに歩み寄り、手を取った。見上げたエーミールと、眼鏡越しでまっすぐに視線が合う。蒼い目は期待の輝きに満ちていた。
「……わたしはお前に外の世界を知ってほしい。この狭い町の中ではなく、この限られた人間関係だけではなく、広い世界を。……そう思えばむしろ、十五歳では遅すぎるくらいだ。わかってくれるね、エーミール」
「……」
温かな手で、温かな声だった。……なのに、こんなにも心臓が冷えていく。
「……わかり、ました。お父様」
辛うじて、頷くことができた。ジルヴェスターは微笑む。
「よろしい。……家から引き上げてきた荷物はもう荷解きをしてしまったかな? 他に必要なものがあるならもう一度取りに行くといい。あちらに行ったら次の長期休暇までは戻ってこられないだろうからね」
「はい……」
それから、あちらからの宿題だそうだ、と指二本分ほどの厚みの紙束を渡される。
「もちろん準備もあるのだから、いくらお前でも全部はこなせないかもしれないが、可能な限り励みなさい」
「……は、い」
行きなさい、と部屋から出されても、しばらく動くことができなかった。たっぷり数分は立ち尽くしてからよろよろと部屋に戻り、鍵をかけてベッドに崩れ落ちる。
三日。……三日。あまりにも短すぎる。何をするにも足りない。どうしてそんな短い期限が。どうして。
学校に編入する手続きとはそんなに簡単なものなのか? 遠い町との連絡はそれだけで時間がかかるのに? 『上の学校』の話はともかく寄宿学校に送るなどとは、これまで何の予告もなかったのに?
──いや。
そんなはずはない。そんなはずはなかった。……ということは、つまり。
ジルヴェスターはエーファがいつ死ぬかを知っていたのだ。
すべてが一本の線につながる感覚。
胸の奥でずっと密やかに回っていた歯車の、始点の手前に更にひとつ、新しく黒い大きな歯車が噛み込んだ。それが異様な力強さで動き出し、がりがりと異音を立てながら駆動し始める。奥底から汲み上げられるのは漆黒の炎。それが急速に意識を染め上げていく。
「……っっあああああああああああああ!!!」
それでも必死で抑えたが、とっさに抱え込んだ枕がその絶叫の大半を吸い込んでくれていなかったら、屋敷中の人々を呼び集めてしまっていたかもしれなかった。
(落ち着け……怒るな……今じゃない……今じゃ……!)
ベッドの上で頭を抱え身体を丸めて、必死で自分を宥めようとする。
だが、どうしたところで自分には三日しかない。
三日。
それはひどく絶望的な期限だった。
昼前。
ヤンがぼんやりと木に寄りかかっていると、子供たちが駆け寄ってきて手を引っ張った。
「ヤンお兄ちゃん、遊ばないのー?」
「追いかけっこしようよ!」
何度か瞬きをする。なぜだろう、笑いかけてくれているはずの子供たちの顔がいまいちよく見えない。
「あー……悪い、何だか眠くってな。ああ、いいよ、遊ぼうか」
何とか身体を起こした。子供たちが甲高い声で笑って、近くにいなかった子供もわらわらと集まってくる。
「じゃあお兄ちゃんが鬼ー!」
「二十数えて追いかけてー!」
「おう」
てんでばらばらに走って行くのを見ながら数字を数え始め、ヤンは思わず苦笑した。すっかりここにいるのが日常になってしまった。
食前の祈りや賛美歌の合唱など少し居心地の悪いこともあったが、ここにいるのは悪くはなかった。届け物も、町に出て景色が見られるからまあまあ楽しい。
……こうも眠くなければもっといいのに。
眠気に襲われながら二十五、と呟いたところで、約束の数字を既に過ぎていることに気づく。
「……いーくぞおー!」
大きな声を上げ、両腕を広げて子供たちを追いかけ始める。
彼らはきゃあきゃあという笑い声をあげて駆け回った。