avenge
9-5.
二時間ほどひとり煩悶して何とか気を落ち着けた。声を抑えて叫び続けた喉が痛い。
水を求めてエーミールがよろよろと廊下にさまよい出ると、洗濯済みのリネン類を抱えたユーディットが階段を上がってくるところだった。
「……」
故意に視線を逸らしてエーミールから離れるように歩いていこうとするが、それをうまく絡め取るだけの余裕がない。
「……あの、何か飲み物を持ってきてもらえませんか」
かろうじて掠れた声で呼びかけると、ユーディットは振り返り、はっとしたようにエーミールの顔を見た。
「ちょっ、真っ青ですよ!? また具合悪いんですか!?」
……言われてみればそうだろう、と思う。だが誰かに喋られては堪らない。睨み付けて低い声で言う。
「……大丈夫だから余計なことはしないで。飲み物を……できれば落ち着けるものを。……黙っていて欲しければ」
「は、はいぃ!」
ユーディットは慌ててリネン類を専用の部屋に放り込み、階段を駆け下りていく。それを見届けて部屋に戻り、乱れたベッドの上をなんとか整えた。隅の勉強机の前以外には椅子らしい椅子がないので、ベッドに座って身体を倒す。
……彼女を捕まえられたのは僥倖だった。あのときも今も。少し信頼性に欠けるが十分以上に使える駒だ。
ほどなくしてノックの音がし、エーミールは何とか目を開けて、身体を起こした。
「……入りますー」
「はい」
緊張した面持ちで部屋に入ってくる彼女に苦笑する。
「……どうしたんですか。そんなに怯えることはない」
「こ、これが怯えずにいられますかー!」
そうだとしてもそれだけ喋れるなら十分だろう、と思った。案外図太いのだ。そこが頼もしいとも言える。
彼女はぶつぶつ何事か文句を言いながら、手にしていた盆をベッドサイドのテーブルに置いた。ポットから澄んだ黄色い液体を注ぐ。覚えのあるカモミールの匂い。
「……どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取ったところで初めて、自分の手が少し震えていたことに気づいた。液体に微かな波紋が広がるのを見て目を瞑る。深く息を吐いて、吸い込む。両手でカップを包み込むと、今度はもうほとんど波立たない。一口啜った。
「……ああ」
湯気と共に吸い込んだ香りが、身体に回っていくような気がする。
「美味しい。……上手ですね、ユーディット」
味などわからないかと思っていたが、思ったよりはちゃんと感じられる。しかもそんな自分の状態を差し引いても、味を引き出すのが上手いと思った。
「いえ、元々ハーブ類を混ぜ合わせたものが戸棚にあったので、それを使っただけですけど……」
「淹れるのが、ですよ」
くす、と笑う。彼女なりには警戒しているのだろうが、あまり距離の取り方がうまくない。
「──外に人がいないようなら、少し話をさせてください」
「……」
裏切られたような顔でユーディットがこちらを見てくるが、その程度で離すつもりなど毛頭なかった。
「先日僕が人に話さないようにと頼んだことは、もう隠す必要がなくなりました。君に選択権はない。諦めてください」
「……、はい」
ユーディットはドアを開けて左右を確かめ、振り返る。
「誰もいませんでした」
「鍵をかけて戻ってきてください」
「……はい」
奥歯を噛みしめたような表情で彼女が戻ってくる。エーミールの手前一歩ほどのところで立ち止まった。
「話、って、何ですか」
彼女が立っていて自分は座っているので、少し見上げる格好になる。エーミールは微笑んだ。
「一つはお願いで、一つは質問です。……そうですね、質問からにしましょう。君が何かを盗みたくなる理由は何ですか?」
「……」
ユーディットは答えるべきかどうか少し悩んだようだったが、エーミールがまっすぐに見上げているとやがて口を開いた。
「……綺麗だな、って思うと、欲しくなるんです。そうしたら周りを観察して、注意して、いろいろ考える。手に入れたときのことを考えると嬉しくなります。三日ぐらいそうやって幸せに浸って、本当に取るときはすごくどきどきして。その全部の思い出がすごく大事な宝物になるから……だから、やめられなくて」
「……なるほど」
話しながらだんだん本当に幸せそうな顔になる彼女を見て、まさに常習者だ、と苦笑する。それが彼女にとって無二の快楽だから、そうそうやめることができないのだろう。
「飽きたら売っちゃったりしますけど、お金は目的じゃないっていうか……で、でもそれでバレてここに来たとかじゃないんですよ。私、ここのお仕事が初めてなので! だからそういうのはお店とかの話で!」
「いえ、それはどっちも駄目です」
「あう」
雑な言い訳をして一瞬で撃墜される彼女を見ていたら、だんだん本当に笑えてきた。エーミールは少し思案する。
「……わかりました。そういうことだともう一つ質問した方がいいかな……君、掏摸はできますか?」
「えっ」
ユーディットはぎょっとした顔をする。
「……やったことないですし、そこまで危険なのはちょっと……」
理由がそれなら掏摸には手を出していないだろうとは思っていたので、特に不思議ではなかった。
「まあそうですよね、あまり当てにはしてませんでした」
「……ちょっとー!」
文句を言おうと身を乗り出した彼女の手を取る。しまった、と身を引こうとする力を利用してするりと立ち上がった。
「……では『お願い』の話をしましょう」
「ううっ」
嫌そうに顔を背ける彼女の耳に囁きかける。
「と言っても、盗ってほしいわけではないんです。この紙を今日明日中に、ジルヴェスター神父の執務机とルドルフの懐に一枚ずつ、忍び込ませてほしい。後者は、無理なら彼の目のつくところに置くだけでも大丈夫です。君に危険のない範囲で構わない。……簡単でしょう?」
力なく首を振って、ユーディットは掴まれた手を何とか引き離そうとする。
「……嫌、嫌です、私に何の片棒を担がせようとしてるんですかー……」
「……」
エーミールは顔を伏せた。
「……それを答えたら、協力してくれるんですか?」
「え」
ユーディットが慌てて首を振る。
「な、内容にかかわらず駄目ですそんなの。何だかわからないけど絶対悪い話です」
何も考えていないような返事に、思わず笑ってしまった。
「そうですか。それではこの話はなかったことに」
「えっ……? あ、あっ?」
ユーディットがはっと目を見開く。くすくすと笑いながら囁いてやる。
「まあそんな簡単なこと、僕が自分でやればいいだけです。そのあとで君のことをお父様に報告すれば君に疑いが行って僕は万々歳、というわけですね。残念です、せっかく挽回の機会を与えてあげようと思ったのに」
「あっ、あっ、ちょっと待って、ちょっと待って! …………や、やります、その紙ください!」
エーミールがわざと彼女から遠ざけるようにしている紙片に手を伸ばして、彼女がばたばたと慌てた動きをする。それを見て、エーミールはふっと真顔になった。
「……本当にできますか?」
「できます……! 執務室には私も他の人もお掃除に入りますし、ルドルフさんは結構その辺でお昼寝してたりしますから……!」
すがりついてくるユーディットに紙片を渡し、両肩に手を置いてきちんと立たせる。
「では、君に任せます。……どうか、お願いします」
俯いた自分の表情を、彼女は一体どう読み取ったのか。
「……。……わかりました。必ず何とかします」
思いのほか真剣な声、冷静な口調で答えて、彼女は紙片をエプロンのポケットに仕舞った。